はイエニーへの手紙に書いている。
「ほかの時なら私を魅惑し、自然観察に亢奮させ、人生の喜びにもえさせたに違いないベルリンへの旅行さえ、私の興味をなくさせました。それどころか、この旅行は私の気持を非常に悪くさせました」
父のすすめでベルリン大学へ赴いたカールは、あまり人ともつきあわず学問と芸術とに没頭した。三冊の詩集がつくられた。はじめの二冊は「愛の書」、あとの一冊は「歌の書」、そして三冊ともその年の十二月に、多分はクリスマスの贈物として愛するイエニーに送られた。このほか一八三九年には、イエニーのために「民謡集成」という民謡集をこしらえた。若いカールは、そうしてイエニーへの思いを詩にたくしながら、法律・哲学・歴史の研究にうちこんで「すぐれた勉強」をつづけた。
このベルリン時代は、大学の課目以外の真面目な研究でカールの生涯に一つの基礎をきずいた時期であった。ベルリンには、ヘーゲル哲学の進歩的な面をとりあげて、その弁証法的な方法を発展させようとする若い哲学者の一団があった。ヘーゲル左党と呼ばれたこの一団は、ドクトル・クラブを組織していて、十九歳のマルクスはこのグループに入った。ドクトル・
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