ケルン市に行った。二人の子供を連れてイエニーも二ヵ月滞在したパリからケルンに向った。ここでカールは新ライン新聞に入社し、「賃労働と資本」を連載した。一八四八年十一月、カールほか二人の同志が組織していた「州民主主義協会」は、内閣が自分の防衛のために議会をベルリンから他の市へ移そうとするのに反対して、市民軍を支持して一つの檄を公表した。檄はマルクスと二人の同志とを叛逆罪として起訴する種に使われた。公判の結果、一同無罪となった。
 これはイエニーにとって貴重な経験であった。良人カールとその同志たちの行動は「実に犯してよい行動、(略)本来からいえばブルジョアジーの果すべき義務であるべきもの」であるとしたエンゲルスの理論の正当さは、妻たるイエニーの愛情を通して犇々《ひしひし》と理解されたに違いない。プロシヤ政府は外国人の退去命令を発した。国籍なきマルクス一家は今や故郷にあって外国人であった。カールは赤いインクで刷られた『新ライン新聞』の最終版にケルンの労働者への訣別の辞をのせ、イエニーはもちものを質屋に入れ、夫妻はケルンを発った。
 まずカールが、次いでイエニーと二人の子供とがパリに赴いたが、フ
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