たい刻々があるけれどもまたうち勝ちがたい確信に支えられているという人生の感情が横溢している。

        三 圧迫下のパリ時代

 一八四〇年代のパリは、歴史的な革命高揚の時期であった。リオンの絹織工が大規模のストライキを行ったのにつづいて、ブランキーの反抗があり、急速に発展した資本主義の矛盾に対して勤労階級の反抗が沸き立っていた。パリには、八万五千人ものドイツ亡命者がいた。当時のドイツの野蛮な圧迫が、人間らしく社会の幸福を願い進歩をねがう人々を、そんなにもどっさり国内から圧し出していたのであった。
 マルクス夫妻は、こういうパリに移って来て、友人の三家族と一緒に、共同の台所と食堂とをもつ一軒の家に住った。習慣のちがう、言葉のちがうパリでの共同家族の生活で、若い主婦イエニーがどんなにこまごました心労を経験したかということは推察される。
 翌年――一八四四年五月一日――イエニーは女の子を産んだ。娘は小イエニーとなづけられた。パリのありふれたかり部屋に赤児の声がひびくようになったが、この年はドイツの近代史にとって忘られない年でもあった。ドイツでは、その生活の惨めなことで誰しらぬもののなかったシュレジアの織匠が命がけの悲壮な一揆を起した。この一揆は世界の同情をひいた。シュレジアの地主と工場主と軍隊が流した織匠の血は、すべての人々の胸のうちに正義の憤りをもえたたせた。後年、ハウプトマンが有名な「織匠」にこの悲劇を描いた。ハウプトマンの「織匠」を観劇して、おさえられない感銘からケーテ・コルヴィッツが彼女の代表的な版画集『織匠』を創ったことはよく知られている。
 すでに人生の苦闘の意味を知っているイエニーは、赤児の揺籃の傍で、あわれな故郷の織匠たちの運命とその妻や子らの心のうちをどんなに思いやったろう。
 カールと『独仏年誌』を中心としてその家に集る亡命者の中には、卓抜な諸部門のチャンピオンたちにまじって、当時四十八歳だった詩人ハイネがいた。カール・マルクスより二十一歳も年長であったハイネとカールとの間には、真実な友情がむすばれていた。カールが徹夜しながら「書物の海」に埋れて社会発展の歴史とその理論を学んでいる時、ハイネは一つの詩を創るごとにカールに見せに持って来た。時々、カールに辛い点をつけられると、ハイネはその詩を夫人イエニーにみてもらった。こうしてハイネの生涯をかざった「一つの冬の物語」「織匠」などが書かれた。伝記のなかには、たった二三行で書かれているこの話は、最も暗示深くマルクス夫妻とその友人たちとの生活の雰囲気を語っている。カールがイエニーを全く独立の見識をもった一婦人として敬愛し、友人の間にもそれが承認されていたことがうかがわれる。自分で詩も創り、生涯文学を愛したカール。大学生であった許婚のカールか贈られた四冊の詩集を、生涯大事にして持っていたイエニー。愛と人生の苦闘とその勝利とは、生きた詩である。マルクス夫妻は、その死を生きた。イエニーが経済的に困難を極める日々のなかでなおハイネの詩を読んでやり、気分の不安定だった孤独な詩人を慰めてやっていたということは、イエニーの資質の豊かさを残りなく語っているのである。
 パリにおけるマルクス一家の経済的基礎であった『独仏年誌』は失敗して、わずか二号で廃刊した。資金が続かなくなった。その上ドイツ官憲は執筆者たるマルクス、ルーゲ、ハイネ等の入国を禁止し、『年誌』の輸入を禁じ国境で没収した。カールが受取るべき手当も貰うどころではなくなった。しかし、イエニーは空皿を並べたテーブルにカールとその友人を招くことが出来るだろうか。
 カールはパリ発行の『フォールベルツ』誌へ寄稿しはじめた。現代社会の発展は生産のもっと合理的な方法によるしかなく、進歩のにない手は世界の勤労階級であることを理解しはじめていたカールは、「プロシヤ国王と社会改良」というような論文で盛にドイツの野蛮と闘った。ベルリン当局はパリのマルクスという人物が気にかかってたまらなくなって来た。この時、ドイツの有名な自然科学者アレキサンダー・フォン・フンボルトは学者であったにもかかわらず、当時のプロシヤ外相の親戚であるということから、全く恥ずべき役を買って出た。フランス内閣を動かしてマルクス、バクーニン等をフランスから追放させることに成功した。
 イエニーは十四ヵ月でパリ生活を切り上げなければならなくなった。金がちっとも無かった。家賃さえなかった。エンゲルスが骨を折って友人の間から金を集めた。生れて半年ほどの赤児をつれて、マルクス夫妻はベルギーの首府ブルッセルに移った。一八四五年一月のことである。

        四「書物の海」からぬけ出たカール――ブルッセル時代――

 三年間のブルッセル時代はカール・マルクスの一生にとって、最も
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング