ランス政府はマルクス一家を気候の悪いブルターニュの沼沢地方へ追放することにきめた。一八四九年八月の終りカールはついにロンドンへ渡った。カールは詩人フライリヒラートに書いている。「家内は臨月の身なのにこの十五日にパリを去らなければならない。しかも僕は家内が出発するに必要な金や、当地に移って来るに必要な費用をどう才覚すべきか分らないのだ。」マルクス一家にとって辛酸な一八五〇年代が始まった。

        五 不屈な闘志――ロンドン時代――

 身重なイエニーは肉体と精神との苦痛をこらえてロンドンにたどり着いた。三人の子供を連れて。そして、宝石のようなレンシェンをつれて。愛称をレンシェンとよばれたヘレーネ・デムートはイエニーの少女時代からの召使いであった。レンシェンはこの時以来、一生をマルクス家の悲しみと喜びとの中に費してその勤勉と秩序で一家の軸となった。(マルクス夫妻の死後エンゲルスのもとに暮し、彼女の墓はマルクス夫妻と同じ墓碑の下に置かれた。)
『新ライン新聞』の名誉とケルン市における友人の名誉を救うために、カールはイエニーの銀器類までを含めて一切の財産を売った。イエニーは手紙の中に書いた。「三人の子供と四番目の子供の誕生。それが何を意味するかを知るためにはあなたは此処ロンドンの事情をお知りにならなければなりません」と。
 カールは朝九時から夕方七時まで大英博物館の図書館で仕事をした。エンゲルスの援助と、ニューヨーク・トリビューン紙から送られる一回僅か五ドルの原稿料が生活の資であった。五〇年五月にイエニーがワイデマイヤーに宛て書いた手紙はロンドンに於ける一家の姿をまざまざと語っている。四番目の子供は弱くて夜もせいぜい二三時間しかねなかった。イエニーは乳母を傭えないで、健康を犠牲にして自分の乳を飲ませて育てていた。無法な家主に追いたてをくって、寒い雨の降る陰気な日にカールは妻子のために家を探してかけめぐった。子供が四人いるときくと貸す人がなかった。やっと友人の助けで小部屋が二つ見つかった。家主がマルクス一家のシーツからハンカチーフ迄差押え、子供のおもちゃから着物まで差押えたときくと、あわてた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋が勘定書を持って押かけて来た。その支払いのためには残らずのベッドが売られなければならなかった。二三百人もの彌次馬に囲まれて、全財産を手放したマルクス一家は新しい小部屋に引移った。
 この年の末、次男ヘンリーが死んだ。二年後に三女のフランチスカが亡くなった。その棺を買う二ポンドの金さえもフランスの亡命者から借りなければならなかった。
「その金で小さな棺を買いその棺の中でいま私の可哀想な子がまどろんでいます。この子が生れた時、この子は揺籃をもちませんでした。そして最後の小さな住居も長い間与えられませんでした。」
 イエニーの日記は溢れる涙を押えている。ロンドンの生活でパンと馬鈴薯の食事は家族の健康を衰えさせるばかりであった。イエニーは病気になった。小イエニーも悪い。丈夫なレンシェンも熱を出しはじめている。カールは図書館へ新聞をよみに行く金のない時さえあった。その時は、トリビューン紙への論文も、書けない。「どうしよう?……」。
 カールは物価の安いジェネバへ引越そうかと思った。しかし彼のとりかかっている「資本論」は大英博物館の図書館なしには完成しない。或る時はイギリスの鉄道局書記になろうとした。これはカールの字体が分りにくいために採用されなかった。
 一八五九年。アメリカを中心としてヨーロッパ中を襲った大恐慌は、マルクス一家の窮乏をますますひどくした。けれどもカールは「万難を排して目的を遂げなければならない。そして僕を金儲け機械にすることをブルジョア社会に許してはならないのだ。」この恐慌の時期に労作『経済学批判』第一分冊が出された。
 ロンドンのディーン街の庭もない二間暮しの生活は、このように困難だった。が、マルクス夫妻の不屈な生活力と機智とは、この生活のなかから汲みとられるだけのよろこびをくみあげた。マルクスの思い出を書いている総ての人々が、なんと忘れがたい楽しさをもって気候のよい日曜日の大散歩の面白さを描いているだろう。『子供とマルクス』という本が書かれたほどカールは子供好きであった。そろそろ娘盛りになっていた娘たちはくらべるものなく優しい父カールをお父さんとは呼ばなかった。顔色や鬚の黒いことで付けたあだ名の「モール」と呼んだ。若い革命家たちがみんな彼を「マルクスのお父さん」と呼んでいるのに。
「マルクス家の軸」であるレンシェンが腕に下げて来るドイツ風の大籠の中の大きい焼肉のかたまり。ゆく先で手に入れる一寸した飲物。仲よくつれ立つマルクス夫妻。嬉々として先に行く子供たち。談笑し議論しながら一団となって来る若き革命家た
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