婚約時代をへてついに結婚したのは一八四三年六月のことであった。歴史に有名な「ライン新聞の弾圧」によって、カールがその編輯者をやめさせられたのは、イエニーと結婚する三月前のことであった。しかも『ライン新聞』を去ったカールが友人と共にパリで『独仏年誌』を発行することにきまって、編輯者としてカールが五百ターレルずつ定収入を得ることが出来るという見とおしがついて、はじめてイエニーとの結婚も実現したのであった。若いカールとイエニー夫妻は、一八四三年の十一月パリに向って出発した。新婚五ヵ月のマルクス夫妻をパリで待っていたのは、歴史のどんな波瀾であったろうか。
ここに一枚の写真がある。写真には年代不詳と書かれている。カール・マルクスが薄色のズボンに黒の服をつけ、右脚を組み合せて椅子にかけている。私たちが見なれているカール・マルクスの写真は、がっちりとした精気あふれる顔のぐるりを房飾りのようなすき間ない鬚で囲われた風貌である。この写真のカールは、見なれたそれらの写真の顔よりもまだずっと若い。広い額が内面の充実した重さでいくらか傾き、濃い眉毛のしたの大きい強い眼はいくらか細めてレンズに向けられている。彼の右肩に一つの手が軽くのせられている。それはイエニーのすらりとした手である。のどのつまった、袖口の広い服を裾長に、イエニーはカールの肩に手をかけて立っている。片手をすんなりと厚い絹地の服のひだの間にたれ、質素なひだ飾りが二すじほど付いているなりのイエニーの顔は、若い信頼にみちた妻の誠実さと、根本の平安にみちた表情をたたえている。二人の愛のゆるがない調和が流れているけれども、はっきりと外界に向って目をみひらき、媚びるところの一つもない口元を真面目に閉じているイエニーの顔つきには、人生と真向きに立っている妻の毅然とした力が感じられる。
この写真はいつ何処でとられたのであろうか。新婚の記念であったのであろうか。娘の頃のイエニーとして小肖像画《ミニュアチュア》にかかれている彼女とこの写真の彼女とは、何という人間らしい立派さのちがいだろう。娘時代のイエニーは、ふっくらとした二つの肩を大きく出した夜会のなりで、小さい口もとに無邪気な微笑をふくみ、可愛いけれども無内容にこちらを見ている。今、カールの肩に手をおいて立っているイエニーの全身からは厳粛な気分が流れている。楽しいけれども苦しい、たえが
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