は新しい小部屋に引移った。
この年の末、次男ヘンリーが死んだ。二年後に三女のフランチスカが亡くなった。その棺を買う二ポンドの金さえもフランスの亡命者から借りなければならなかった。
「その金で小さな棺を買いその棺の中でいま私の可哀想な子がまどろんでいます。この子が生れた時、この子は揺籃をもちませんでした。そして最後の小さな住居も長い間与えられませんでした。」
イエニーの日記は溢れる涙を押えている。ロンドンの生活でパンと馬鈴薯の食事は家族の健康を衰えさせるばかりであった。イエニーは病気になった。小イエニーも悪い。丈夫なレンシェンも熱を出しはじめている。カールは図書館へ新聞をよみに行く金のない時さえあった。その時は、トリビューン紙への論文も、書けない。「どうしよう?……」。
カールは物価の安いジェネバへ引越そうかと思った。しかし彼のとりかかっている「資本論」は大英博物館の図書館なしには完成しない。或る時はイギリスの鉄道局書記になろうとした。これはカールの字体が分りにくいために採用されなかった。
一八五九年。アメリカを中心としてヨーロッパ中を襲った大恐慌は、マルクス一家の窮乏をますますひどくした。けれどもカールは「万難を排して目的を遂げなければならない。そして僕を金儲け機械にすることをブルジョア社会に許してはならないのだ。」この恐慌の時期に労作『経済学批判』第一分冊が出された。
ロンドンのディーン街の庭もない二間暮しの生活は、このように困難だった。が、マルクス夫妻の不屈な生活力と機智とは、この生活のなかから汲みとられるだけのよろこびをくみあげた。マルクスの思い出を書いている総ての人々が、なんと忘れがたい楽しさをもって気候のよい日曜日の大散歩の面白さを描いているだろう。『子供とマルクス』という本が書かれたほどカールは子供好きであった。そろそろ娘盛りになっていた娘たちはくらべるものなく優しい父カールをお父さんとは呼ばなかった。顔色や鬚の黒いことで付けたあだ名の「モール」と呼んだ。若い革命家たちがみんな彼を「マルクスのお父さん」と呼んでいるのに。
「マルクス家の軸」であるレンシェンが腕に下げて来るドイツ風の大籠の中の大きい焼肉のかたまり。ゆく先で手に入れる一寸した飲物。仲よくつれ立つマルクス夫妻。嬉々として先に行く子供たち。談笑し議論しながら一団となって来る若き革命家た
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