アメリカ文士気質
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)悪《にく》く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二〇年四月〕
−−
私がアメリカにおりましたのは僅か一年半ばかしのことで、別にたいした感想もありません。が、向うへ行く前までは家庭にばかりいて、本当の世間というものを直接に余り見たことのない私には、それがたとい短かい一年半にしてもこの「世間を見て来た」という点に於いてよいことであったように思われます。そして、以前とは多少、物の見方や考え方なども自分ながら変って来ていることにも気付きますが、併し、そんなことを長々と申しましたところで、それは私自身のことで、この雑誌の読者の方にはわかり悪《にく》くもありましょうし、また興味もありますまいかと思われます。そこで、内的な私自身のことをお話するよりも、もっと一般的な意味で、私の見て来た彼方の同人雑誌のことをほんの少しだけ申してみましょう。
彼方でもやはり日本と同じように、『文章倶楽部』のような雑誌もありますし、また『奇蹟』とか『異象』とかいうような同人雑誌も沢山あります。併し、その根本になっている心持なり態度なりが此方のものとは大変に異っているように見えます。それは一面たしかに国民性から出ているものです。
彼方では一般が商取引風《コムマーシャール》になっているように、やはり文筆を執りつつあるものの間にも、それがあります。作品として出来上がった結果のよしあしは別として、日本などとは丁度反対で、名人気質の人がどうも少ないようです。
この私の見方は丁度、三人の按摩さんが各自思い思いに象のからだの一部を摩《さす》って見て、
「象という獣は鼻のような形のものだ。」
「いやそうじゃない、尻尾のようなものだ。」
「いや、足のようなものだ。」
と言い合っているような類いで、その見る人によっては全く異ったものに感ずるでしょうけれども、とにかく、私はそういう風に感じ、観、また考えても参りました。
とにかく、米国人は一般からコムマーシャールの方を多く持ち、日本人は名人気質の方を持っているように私には思われました。そして、米国では日本なぞよりも執筆者が数からいっても割合からいっても遙に多いが、その執筆者も或る雑誌が買ってくれているから書いているので、その
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング