電燈の光を黄色くした。鳥打帽の若い労働者が女の腕をとって、その長いトンネル内を歩いている。男も黒いなりだ。女も若いが黒いなりだ。全光景はマズレールに彫らせ度い大都会の強烈版画的美しさである。
 説明しないいろいろな動機から、東端《イーストエンド》を廻って来た、どこの誰だか判らぬ人々が三時間目に再びトラファルガア広場で散らばった時、ロンドン市の上へ月がのぼった。
 ロンドン市は片眼をつぶり、片眼を開けて数百年、夜じゅう起きていた。月は片眼のロンドンでデイリー・メイル社の電気広告の真上を歩いている。
 十一時、ピカデリー広場やチャーリング・クロス附近から一斉に英国国歌の吹奏が起った。
 ――|神よ・我等の光栄ある王を護れ《ゴッド セーフ アワ グローリアス キング》。――タクシーが熱してはしり出した。どこへの宣戦布告だ?――芝居がはねたのだ。舞台衣裳に働かす活溌な想像力はパイプのやにの中にさえ待ち合わさぬロンドンの一流から四流までの劇場で、幕が下り、また幕が上り、舞台から夜会服の男女俳優が同じように夜会服の男女観客に向ってうわ目を使いつつ腰を曲げ、喨々《りょうりょう》たる国歌が吹奏されたのである。
 ライオン喫茶部では大理石切嵌模様の壁がやけにぶつかる大太鼓やヴァイオリンの金切声をゆがめ皺くちゃにして酸素欠乏の大群集の頭上へばらまきつつあった。昨夜ここでマカロニを食べた二人連の春婦が同じ赤い着物と同じ連れで今夜はじゃがいもの揚げたのをナイフでしゃくって食べていた。食べながら遠いところのどっかへ向って腰をひねり、嬌笑した。失うべきものを持たぬロンドン人が月の下の街やのれんの奥にいた。
 ホワイト・チャペル通でドイツ賠償問題に関する共産党の路傍演説が終った。「ミスター・フィリップ・スノウデンは勝った。然し英国とドイツの労働者は敗北したんだ。」月はこういう言葉を聴きいよいよ片眼のロンドン市の上へ高くのぼって、トラファルガア広場の立ち上ったところはまだ人間によって見られたことのない四頭の獅子とドーヴァ海峡の海のおもてを照らした。
[#地付き]〔一九三〇年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「改造」
   1930(昭和5)年6月号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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