――冷肉とサラドを貰いましょうか。
 それはミセス・XX《エッキスエッキス》の地声だ。が、生《き》ではない。――
 こういう話しっぷりそっくりな中流住宅がロンドン市いたるところで目についた。むずかしいことはない。三ペンス払って乗合自動車《オムニバス》に乗る。そしてさっき日本女がやっていたように窓へ顔を押っつけて過ぎ行く街筋を見ていると、やがて諸君の目前に現れるだろう。窓を五つばかり持つ小ぢんまりした二階建の正面が四五軒から八九軒立である。が、おのおの三尺の入口扉が独立についている。第一軒の入口に白い柱列《コラム》でもあればそれは三坪ほどの前栽に向って全建物が終るまでつらなっているであろう。そして小砂利か煉瓦でたたんだこみちが往来をくぎる垣根までつけられている。垣根は低い。前栽の金魚草・たちあおい・ゼラニウム・緑・赤毛糸ししゅうみたいな花壇とその奥の窓々に白いレース・カーテンをかいま見させるていどに開放的である。しかししんちゅうにぎりの入口扉と窓枠は往来に向って独特の静まりかたをしていて――つまり紹介状なしに人は入れぬ「|英国の家庭《イングリッシュ ホーム》」を示威している。ソヴェト・ロシアの「住居」の観念とこれはまるで違う。また、ル・コルビュジエの「家」の観念とも違う。イギリスの多くの尊敬すべきMR《ミスター》・AND《アンド》・MRS《ミセス》にとっては或る種の日本人のように家すなわち国家細胞としての家庭で、彼らはどんないいことも悪いこともその中で考えたりやったりしているのだが、ただそのやり方が支那人のように叫喚的でも日本人のように神経的でもなく――そうだ! この話し振り通りの要領である。互に他人に聞かす分量と自分の内へしまっておく分量との区別を知りそれを常に間違えない技術的訓練でやっているのである。
 小指にはまった指環が暑い日光に光ってひっこんだ。日本女の前にレモンをそえたドーヴァ鰈《かれい》のフライが置かれた。
 ドーヴァ鰈のフライは、頭から食べてもしっぽから食べても、靴をぬいで食べないかぎり英国の徳義には触れぬ。魚は新鮮である。胃はからだ。片身がきれいにとれると美しい骨格が現れた。が、黄色鮮やかなレモンの皮に向ってひろげた魚族の骨の真中に、日本女は小さい小さい飛行機の機影が映っているように感じた。ドーヴァ海峡の海の水を霧の上空からみおろすと紫がかった灰色だった。海の面に毎日飛行機の影がとぶ。影は水をとおす。水の中を泳ぐ魚の体の上にもうつる。フォークをひかえて、日本女はしばらく近代魚類体中の飛行機をロンドンに於て生新に感覚し、それからそれを引っくりかえし愛情を感じつつ皆食べてしまった。

 穿鑿《せんさく》機の激しい音響は鼓膜をしびらし、暑い空気を白い炎のようにふるわした。
 ホワイト・チャペル通の右側は掘じくり返し積み上げたコンクリート道路工事の塹壕である。乗合自動車、貨物自動車、荷馬車。互に待ち合わせ強烈な爆音中で時間の感覚を失いながらのろのろ進行した。
 横丁にずらりと露店が出ている。バナナ、駄菓子、古着、ボタン紐、道路工事に面する大通のペーヴメントにはほこり、古新聞のほご、繩片、煙草の吸殼等が散っている。子供を片腕にかかえ、袋を下げた神さんが行く。白粉と紅との下から皮膚の垢を浮出させた十八ばかりの可憐に粗末な造花、安女店員がいそぎ足で通る。手のついたブリキ罐をぶら下げ格子木綿の服を着た男の子供が、格子木綿の女の子の服を着た弟の手を引っぱって行った。子供はどっちも帽子なしである。ポヤポヤした彼らの薄赫い髪の毛を八月の土曜日の太陽がすき透した。コーセット店のショー・ウィンドウが埃をかぶっている。山の手では見られない古風な紐じめ大コーセットが桃色である。
 気がぼっとする穿鑿機の爆音のうちへ、或はその中から、通行人は歩道へぎっしりだ。ひどいぼろ服に鳥打帽や古山高を後へずらしてかぶり、カラーなしの男たちがあっちに二三人、こっちに一塊り立って、ぼんやり働く人間の群の方を眺めている。英国の登録されたる失業者総数凡そ百二十六万人弱。
 選挙のとき労働党は民衆に約束した。「労働党はただちにそして実際的に失業問題に処すべき無条件誓約を与える」数年間にわたっての失業救済事業案が出た。幼年者補助養老扶助年限が繰下げられた。しかし同時に統計は示している。労働党治下の失業保険掛員は七月一杯だけで、保守党時代よりさらに多く、五千人の失業者にたいして補助をこばんだ、と。イギリス労働組合保険連盟は「本気で職業を求めていぬ」という微妙な心理的理由によって失業保護を拒絶する権利をもっている。同じ労働組合の協定によって鉄道従業員、木綿羊毛織工及炭坑夫は国家の工業をたすけるべく[#「国家の工業をたすけるべく」に傍点]数パーセントの賃金切下げを決定
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