。
――外交に必要だからだよ。
日本女の部屋のテレスの欄干に雨のしずくがたまった。昨日雨が降った。今日も雨が降る。五月の雨である。
日本女は、そこに六ヵ月生きたモスクワから、新生活が始まったばかりのロシアを強く感じている。СССРは、二十世紀の地球に於て他のどこにも無いよいものを持とうとしている。同時に他のどこにも無い巨大な未完成と困難を持っている。
モスクワ河から風が吹いて電線がゆれた。電線の雨のしずくが光って落ち、基督救世主寺院の散歩道で、空っぽのベンチが四つ、裸の樹の枝のかなたで濡れている。こうもりをさした人が通った。市民《グラジュダニン》ルイバコフの台所ではさぼてんが素焼の鉢の中で芽をふき、赤い前かけの女中ナーデンカはパン粉をこねている。下宿人、ミハイル・ゲオルクヴィッチ、いつもきっちりしたなりをして革の時計紐をそった胸につけているが、タシケントにある家屋の買いてを見つけることは不可能になった。彼の子を一人持った女が千三百ルーブリの扶助料《アリメント》不払いに対してミハイル・ゲオルクヴィッチを訴え、法廷はタシケントの家を差押えた。室にあるトルコ刺繍も四百ルーブリではなかなか売れない。
二人の日本女は海のあるレーニングラードへ出発するだろう。
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附記[#「附記」はゴシック体] 新しいロシアに就ては未だ沢山書きたいことがあるし、又書かなければならない事がある。モスクワ生活の印象としてもこれは一部分だ。芝居のことその他は続編として別に書きたいと思っている。(五月三十日前後から、モスクワに白パンが無くなった。天候は不順で寒い。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]〔一九二八年八月〕
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「改造」
1928(昭和3)年8月号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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