がきた。彼が胸からつるした天火のゆげが、ドアの煽りでちった。同時に肉入饅頭《ピローシュカ》の温い匂いも湯気とともにちる。
番兵の、田舎の脳髄のひだのあいだで東洋女の平たい顔の印象がぼやけた。ただ好奇心の感覚が、漠然神経にのこっている。その時、永いあいだ立っている橇馬が尾をもたげ、ここちよげにゆっくり排泄作用をおこなった。雪解けの水にぬれたむかい屋根の雨樋にモスクワの雀がとまって、熱心に、逞しい馬の後脚の間に落ちたできたての、湯気のでる餌をみはった。
ホテルの四階のはしに、日本女の部屋があった。下足場に棕梠がおいてある。そこから日本女の室まで七十二段、黒・赤・緑花模様の粗末な絨毯がうねくり登っている。昇降機はない。あってもうごかぬ昇降機がモスクワじゅうにたくさんある。日本女は一日に少くとも二百八十段上ったり下りたりした。そのたびに事務室《カントーラ》の前をとおりすぎた。事務室《カントーラ》の白い戸には三越の文具部にあるインク・スタンドの通りな碧硝子のとってがついていて、執務時間第八時より第十二時。第十四時より第二十二時と掛札が下っている。新モスクワの生活法を、レーニンの大写真が眺めている。
四階の手摺から下を見下すと、下足場の棕梠の拡った青葉のてっぺんと、その蔭に半分かくされたテーブル、うつむいて上靴《ガローシ》をはいている女の背なかまで一つの平面に遠くみおろせた。棕梠があるから、人はここから身を投げても死ぬことはできない。
一人の日本女は、一日のうちになんどもそこから下をのぞいた。
夜になると、小さい花電燈が二つ点いた。廊下は静かだ。よく女中《ゴールニーチナヤ》が手摺のそばに椅子を持ちだし、キャラコのきれに糸抜細工《ドローンワーク》をやった。女中《ゴールニーチナヤ》は痩せている。栗色の毛をかたくくるくる巻きにしている。海老茶色のジャケツをきて小さい耳飾をしている。日本女は、てすりによりかかり、文法没却法で彼女と話した。
――今夜寒い。
――|寒い《ホーロドノ》! 貴女の部屋は? 温くありませんか?
――部屋は温い、もちろん! ここ、廊下にいて寒くない? あなたの家は温い?
――温い。西日がさす。温いけれど夏はやりきれない。
――西日は体によくない。
――よくない。
――丈夫? あなた。
――肺がわるい。――二期――分ります? 私の云うこと
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