活動の字幕に、アフリカ大密林の深き[#「深き」に傍点]ところ、と云うタイトルが出たとする。私たちの受ける印象は必ず、地面の上から人間の頭上高く上へ上へ繁茂した木下闇の感じだ。深い。然し上へ向って深い。ロシア民族の持つ深さは、下へ向って底無しの深さだ。例えば、罰金のがれに巡査をうまく撒いたニキーツキー門のりんご売の行動、それを眺める周囲の見物人の顔つき、彼らの吐く空気とともに彼らの心情の底なしさが傍観している私の心に吹きつけて来た。その時居合わせた数人の見物の中に、小さな突発事を道徳的な見地や市の秩序という視点から批評しようとしたものは唯一人も無かった。私はそれを断言できる。ロシア人なら、彼等の心はそういう風には動かないのだ。間抜らしく而も的確に逃げたりんご売の心持、それを追っかけようともせぬ巡査の心持、総てを自分達の心持として理解し、笑う。よし、あし、は抜きなのだ。一人ドイツ人がいると雰囲気は変る。彼はたといそれがどんな小さい角でも事件に推理的ひっかかりをつける。何とか理窟が出る。ドイツ人が上に深い[#「上に深い」に傍点]ゆえん、ぴんからきりまでのおびただしい哲学者とカール・マルクスを生育させたゆえんだろう。
 ロシアの民衆は彼等の人生をまず頭で、或は心臓の一歩手前で受けとめる道具として何ものも持っていない。イギリス的常識も、又は日本のいわゆる義理も。深く、深く、彼等の魂《ドゥシャー》に直接触れるまで、人生は彼の内に沁み込んで行くことを許される。魂《ドゥシャー》がそれに触れた時、彼は何と叫び出すか。どの程度に叫ぶか。それは彼自身知らないであろう。これは非常に興味ある民族の特徴だ。ゴリキーの「どん底」に出て来るすべての人間が面白い理由はここにある。彼等にいわゆる学問は一つもない。然し人生哲学はある。ひろい、様々な人生は絶えず彼等の魂《ドゥシャー》に触れて彼らをして叫ばせる。人生と各々の性格とが仲介物《ミディヤム》なしに結びついて生きている。故に、ロシアでは、乞食の児のようにして育って来た子供が、いつか文字をおぼえ、彼の深く敏感な魂《ドゥシャー》に従ってよき作家となることが、まれでなく在り得るのだ。例えば、「セメント」の作者の両親は何であったか。ヴォルガの浮浪労働者であった。幼年時代のグラトコフは、いわゆる教育は何一つ与えられなかった。然し、生きるにつれ、彼を取りかこむ
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