い。私が初めて「コサック」を読んだ頃から、「二十六人と一人」を読んだ時分から、私の心に生じていたロシアに対する興味と愛とは、十二月のある夜、つららの下った列車から出て、照明の暗い、橇と馬との影が自動車のガラスをかすめるモスクワの街に入った最初の三分間に、私の方向を決めた。できるだけ早く自分の英語を棄ててしまいたくなったのだ。
 私は、いそいではどこもみまい。私は、私の前後左右に生きるものの話している言葉で話そう。そして、徐々に、徐々に――私はわが愛するものの生活の本体まで接近しよう。

 二月の夜八時、芸術座の手前の食堂《ストロー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤ》からある印象を抱いて出て来る。変に淋しい家であった。そこには、たった一人、ピストルを今鳴らされたばかりみたいなポーランド爺がいて、背広で、給仕した。帰る時、その家の猫がYの手袋をくわえてテーブルの下へ逃げ込んだ。
 トゥウェルスカヤ通りへ出ると、街全面がけむたいようで、次第にそれが濃くなって来た。霧《トマーン》。霧《トマーン》。

 霧《トマーン》は、天候の変る先ぶれのラッパだ。翌日街へ出て見たら、すべての橇馬の体で汗が真白い霜に凍っている。通行人のひげも白い。本物の「赤鼻のモローズ」がモスクワの街へ降りた。

 午後三時半、日が沈みかけた。溶鉱炉の火玉を吹き上げたように赤い、円い、光輪のない北極的な太陽が雪で凍《い》てついた屋根屋根の上にあり、一本の煙筒から、白樺の黒煙がその赤い太陽に向ってふきつけていた。
 ブルワールも樹立も真白だ。黒く多勢の人々が歩いて行く。それらの人々は小さく見えた。

 五時すぎ、モスクワの月が町を照す。教会の金の円屋根《ドーム》がひかった。月の光のとどかない暗い隅で、研屋の男の廻り砥石と肉切庖丁との間から火花が散り、金ものの熱する匂いがした。
 赤い太陽の沈んだのと十三夜の明るい月の出との間がまるで短く、月は東に日は西に。北にあるらしい都会の感興が自分を捕えた。
 それは、然し天のこと。――街上は夕闇の中に人。人。人。女乞食が栗鼠《りす》外套を着た女の傍にくっついて歩いて、
 ――可愛いお方、お嬢さん。小さい娘の為にどうぞ――ほんの一コペック――パンの為に――女は見向きもせず歩いて行く。りんご売の婆さんと談判している女が頭からかぶっているショールには、赤と黄色のばら
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