職業組合には属していない。СССР全経済組織は迅速に社会主義化され、個人営業の手工業者(靴直し屋、裁縫師、理髪など生産手段を自分で持っている職人)までが、集団的生産組合にまとめられつつある。
 辻馬車の赤い輪と馬の蹄とは当然昔のような個人的利潤をひらき出さない。その上燕麦は高かった。ソヴェトの農村は五ヵ年計画の集団農場化でいくらでも働く手を呼んでいる。共同牧畜のために。一匹の牛、一頭の馬も招待されている。市へ出て引合わぬ燕麦と税とで馬車をころがすより集団農場員となって生活保証をうけた方がましではないか。
 一九三〇年の初夏からモスクワの辻馬車は数でぐっと減り、馬車賃で倍あがった。
 モスクワ人は馬車にあふれる程荷物をつみこみ、而も、たとえばステーション前などではスラブ人的忍耐を極度に活用して、賃銀協定をやるのであった。こういう事情がなかったら、裏のいたんだ外套をそのまま着ている小さい日本女が、どうして二ルーブリ、十五分に出す決心をしたろう。
 日本女は、写実劇場まで行かずサドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤの交叉点を一寸越したところで馬車を止めさせた。彼女は歩道の菩提樹のわきへおり、御者台にあおむいて云った。
 ――私は約束通り二ルーブリ払うよ。――一ルーブルこまかいのを持ってる?
 ――三ルーブリより少い金は受けとらない!
 ――このあたいはよくとも悪いあたいじゃない、私は一コペックだって増す気はないんだ。
 ――三ルーブリ! 三ルーブリ!
 御者は、腰をひねって歩道に立っている日本女に向って黒い髯のある顔を下げ、太い声をひっぱって云った。
 ――三ルーブリ……わかりましたかね? それをあんたは払わなくちゃならないんだ。初めっから寄り道するって云わなかったじゃないか。
 日本女は強情そうな目付で御者をじっと見、はっきり一言一言区切って云った。
 ――お前さん、ロシア人だろう? 馬車にのっかってる人間が寄ると云ったら、寄り道にきまってることが分らないの?
 暫く黙って御者は、やや弱く。
 ――いや何とも云わなかった。
 それから急に大仰に体の両側へ絶望的な手をひろげ、通行人に訴えようとするようにあたりを見廻しながら、
 ――こりゃ何事だ!
と叫んだ。
 ――あんたは私の馬車にのって来た、それだのにここまで来ると払わないって云い出す! そんな話ってあるもんじゃないじゃないか。
 日本女の黒い眼が、焔の下の石炭のようにきらきらしだした。馬車へ再び足をかけながら短く、彼女は命令した。
 ――さ、巡査のところへ行こう。
 御者は同じ様に挑戦的に応じた。
 ――行こう!
 御者がさとらぬようにそっと口をあけて、日本女は何とも云えないおかしさでひとり笑った。だって、一体これを何と解釈すべきだろう。日本女をのっけた馬車は、今七時二十分、人の出盛っているトゥウェルスカヤ通りを逆にもときた方へ向って動いている。車道の真中には恐ろしい火山でも出来たようにぴったり歩道際へすりついて、四本の馬の脚でのろく歩けるだけのろく練っている。そんなにのろくさ歩くのは不自然でおまけに退屈だ。馬はひょいと普足《なみあし》になる。すると御者はあわてて手綱を引きしめ、のろのろのろのろ歩かせる。
 むこうから来てすれ違う一人一人の通行人の顔が大写しになってかぶさって来るように感じる位ののろさなのだ。――御者奴!
 それは、御者も商売からまるで間違った推測をしたのではなかった。この外国女は、第一ひどく急いでいるんだ、芝居へ行こうとしているんだと。サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤにはメイエルホリド座がある。写実劇場がある。オペレット劇場がある。実際日本女は写実劇場でもう坐っているべき時刻なのだ。だが、御者はそろそろ自分の予想に自信を失いかけている。日本女は、芝居におくれないために、余分な一ルーブルは出そうとしなかった。その上(本当に?)警察へ行く気でいる。――では、芝居へ行くだろうと思ったのは間違いだったか?
 御者は黙って、ひたすら馬をのろく御すことに努めている。自分の根気と小さい外国女の根気とを計っている。彼はもう罵るだけ罵ったのだ、と云うのは、サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤの交叉点からこの通りを真直来たのではない。もうすでに寄り道して来たのだ。やはりこののろさで。
 大通りを左に曲り、暗いごろた石道を数丁行って御者は外側を青く塗った一軒の家の前へ馬車を止めた。彼は、しきりに外側から家を眺めたのち御者台の上でうなった。
 ――畜生! どこへか引越しちまった。
 往来に向いた低い明るい窓の内で、ルバーシカを着た若者が数人で談笑しているのが見える。外までその声はもれず、燈火だけ人通りのない道へさしている。
 御者は日本女にくってかかった。
 ――へ? どうしたらいいんだ! ここにこの間まで警察があったのがなくなっちまってる!
 ――モスクワに警察は一つじゃないだろ。おだやかな口調で日本女が答えた。
 ――巡査は往来にだっているよ。
「見りゃあまだ年もとってないのに、こんな目に人を会わせる、恥だ!」「あんたは不正直だ。こんな客にははじめて出喰した!」
 日本女の返答は一つだ。
 ――私は正しい価を云ったんだし、正しい約束して乗ったんだから負けない。私はお前のソヴェト権力と一緒に正しいところはどこまでも突っ張るよ。
 プーシュキン記念像の下まで戻って来てしまった(サドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤとストラスナーヤはつまりそんなに近いのだ)。御者は往来のくぼみ、今は一台もいないタクシー溜りへ馬車を引込み、その辺を見廻してたがやがてのろくさ御者台を降り、広場の方へ去った。若い交通巡査を先に立て、馬車のところへ戻って来た。
 日本女は馬車からこごんで巡査に事情を説明した。御者はわきへ巡査の方へ背中を向けて立っている。もうまわりは人だかりだ。若い交通巡査は、黒い外套の胸をふくらませてしめた皮帯の前へ差した赤い指揮棒の頭をひねくりながらきき終ると、手を帽子へやりロシア風にそれを頭のうしろへずらした。
 ――……警察で話して下さい。
 御者に向い、
 ――警察へ行け。僕はここでいそがしいんだ。
 広場の交叉点へ戻って行ってしまった。
 ――何だい。
 ――言葉がわかんないんじゃないの?
 群集がしゃべり出した。
 ――どうしたんだ? 彼女は何が必要なんだ?
 日本女は、馬車へのっかったまま平らかな視線で自分のまわりへよって来た群集を眺めた。彼女は群集を知っている。パンの列に立ってる間に、電車でもみくしゃにされた間に日本女がその気ごころをいつか理解したモスクワの群集だ。
 ――どうしてこんなところにかたまってるんだ?
 御者は、馬車から下りて馬のわきへ立ったまんま低い声で答えている。
 ――外国女が金を払わないんだ。
 ――ロシア語が判んないのか?
 ――わかりますよ。
 日本女が答えた。
 御者は何も云わない。――
 茶色の革帽子をかぶって共産青年同盟員らしい若者が人だかりの輪のうしろから体をはすかいにして出て来た。馬車の上の外国女を一寸眺め、巻煙草の吸殼をすててそれを足でもみ消しながら、
 ――行けよ、警察へ行った方がいいや。
 御者に云った。
 ――このトゥウェルスカヤ通りにあるよ。
 ――あすこにないんだ、もう。行ったんだが。
 ――あの先だ。
 うしろの方から誰かがのび上ってるような声で叫んだ。
 ――百十番地だよ、トゥウェルスカヤの。
 御者は、みんなの言葉にかきあげられるような恰好で再び御者台へのぼった。蹄の音を乱しながら馬をまわした。再び「イズヴェスチア」新聞社の高い時計台。映画館「アルス」から降るイルミネーションで、外套の肩と胸とを赤く照らされながら、歩いている通行人。
 決して歩調をはやめずまたサドー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ヤを横切ると、その街燈柱と菩提樹のところ、きっちりさっき日本女が一度馬車から下りた地点で車を止めた。あっち向のまま、
 ――家へ帰んなさい。
 日本女はすぐに御者の云うことを理解しなかった。
 ――家へかえんなさい、もう先へは行かないよ。
 気落ちしたように、だがどこまでも頑固に侮蔑を失うまいとして強く御者は云った。
 ――金なんぞいらない、あんた欲しいんだろう、もってきな。
 日本女は蜜の入れもので膨らんでる書類入れ鞄をかかえたまま馬車を下りると小戻りして、変電塔の横へ袋をもって出ているリンゴ売のところへ行った。
 ――いくら? それ一つ。
 ところどころ当ったひどいリンゴだ。
 ――十五カペイキ。
 ――じゃ二つ。
 絶え間ない通行人だ。
 乗合自動車を待つ一かたまりの群集のかなたから、今は体ごとこっちへ向きなおり、熱心に小さい日本女が金をくずしているのを待っている辻馬車御者の眼と黒い髯とが見えた。[#地付き]〔一九三一年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「読売新聞」
   1931(昭和6)年1月1日、4日、6〜9日号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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