人は八王子市のメーデーに行くのであった。
 残念なことに、体の工合がよくなくて私は行進に加わることはできない。けれども、時刻を見はからって、東京駅の横から日本橋へでる街角へ行った。
 ちょうど、もう行進がはじまっている。宮城前広場から、ここを通って上野へ行くのは、城東地区の組合である。隊伍堂々とプラカードをかかげて、パラパラおちる雨をものともせず歌いながら行進してくる。その隊伍を一目見て、私は思わず囁き、涙を抑えかねた。ああ巡査がいないメーデー! と。もとのメーデーを見ているものが今日感じるこのよろこびの深さは実にいいつくせないものがある。自由さえこうして与えられれば、私たちみんなは、何と立派に行進することを知っているのだろう。適当な間をおいて、赤十字のしるしのついた救護班のトラックをしたがえ、蜒々たる隊列は、標語板を林のようにゆるがせながら東京の焼け跡の街を押して来る。大手町の方を眺めると、歌声のとどろきと旗の波が刻々増大し、つきぬ流れは日本橋へ向っている。女のひとも、どっさり今日は行進している。目を据えてみていると、歌いながら、笑いながら、行進の中から、合図の手を振るひとたちがある。我を忘れて声をあげ、それに答えて手をふっているうちに、列はすぎて、食糧輸送組合の血気な人々が、自分から脚の生えた米俵になってやってくる。「石川島」と大旗を立て整然とした男女の大部隊がつづいてくる。とりわけ元気に、赤旗を先頭に立ててきた一団の中にあの顔、見なれた若い女の人たちがいて、互に行列の中と歩道から思わず声をかけて手をとり合い、わたしは、もうほんの少しで行進の中にさらいこまれそうになった。
 気がついてみると、きょうのメーデーに、往来で見物している人の数はいたって少ない。東京の人口が、もとからみると減っている。それもあるが、しっかりと職場についている勤労者は、みんな組合の行進に加わってしまっているからなのでもある。

 メーデーの日、モスクワの街々は、かえって深閑としている。あらゆる人群は、モスクワの中央部へ、赤い広場へと注ぎこまれて、すこし離れた街筋は、人気ない五月の空に、街頭ラジオが溢れだす音楽と大群集の歓呼の声をまいている。夕方、行進が解散になり、赤いプラカードの林が陽気な歌にゆれながらこの地区に戻って来る迄、モスクワ中の感動は、赤い広場という一つの心臓のぐるりに熱く燃えてあつめられているのである。

 益々元気旺盛な行進がつづいて、うれしい思いが募るにつれ、私は、もっと音楽をと願った。もっといろいろの歌を、と心に叫んだ。来年こそ、私たちは、もっともっと素晴らしい音楽を先頭に立てて行進するだろう。紙や布もたっぷり買って種々様々の意匠をこらし、そこの職場の飾物もこしらえるだろう。そういうよろこびは、すべて、私たち日本の働く人民が、来年五月を迎えるまでの一年の間に、どれだけ自分たちの団結の力、組織の力をつよめ、日本を働いて生きるものの幸福のための社会にしたかということを照りかえして見せる鏡となるのである。
 五月一日の日がくれかかるころ、うちへは、あちこちのメーデーの経験話がもちよられた。新宿駅前広場は、城北地区の解散場であったが、そちらの行進の先頭を切ったのは簡易保険局の女子職員で、この間モスクワのメーデーと写真に紹介されたとおり、奇麗な花束を一人一人が抱えて行進した。そして、新協劇団のトラックが劇場人のメーデーらしく、揃いのなりをした俳優たちを満載して来て、シュプレヒ・コールをうたい大喝采をうけた。青年共産同盟の若々しい合唱団もトラックにのって来ていて、新協とかわりがわり歌をうたい、よろこびの日の賑わいを添えた。
 今年のメーデーには、婦人、子供の参加がきわだって多かった、と翌日の新聞に伝えられたのであった。
 これは東京の中心ばかりでなく、八王子市を、三時間余もねり歩いた行進の中にも、若い働く婦人たちが、どっさり参加していたそうである。メーデーの共同のスローガンの中には、働く婦人の要求として、同一労働同一賃銀がかかげられたし、産前・産後の有給休暇の要求も示されていた。これらの当然な要求は、働く婦人の実力でこそ、実現されるものである。
 宮城前から首相官邸前にさしかかった行進は、隊伍の中から代表を官邸へ送りこみ、秩序正しく、前進しつづけた。そして、機会もあらば、と待ちかまえていた警官を失望させたことを、新聞はいくらかからかい気味に報じている。
 官邸に入った代表は、首相に面会して、今日の日本の生活が、これほど行づまり、危機にせまっているのに、具体的な方策は一つも建てないで、政権の奪い合いをしている不誠意について詰問したのであった。
 総選挙、その後の政府のやりかた、メーデーと、私たちは短い日数のうちに、実は少なからぬことを学んだ。真の
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