六年、日本でいえば明治十九年の五月一日に、アメリカ全国の労働組合員数百万人が、八時間の労働、八時間の休息、八時間の教育を! というスローガンをかかげて行進しました。そして、八時間労働の要求が通ったことに、世界の労働者が感奮しました。それ以来、一八九〇年、明治二十三年から、五月一日のメーデーは国際的な催しとなったのでした。
 明治二十三年と云えば、日本では、ついこの間まであった旧い憲法の発布された翌年です。みなさま御存じのとおり、日本の旧い憲法は、支配する者の絶対な権力を示すことを主眼にしてつくられたものでした。働く男女、人民の服従の義務は語られていても、その権利は示されていませんでした。その頃の日本の産業は幼稚であったばかりか、一番数の多かった紡績工場で、女工さんがどんなにひどい条件で働かされていたかということは、桑田熊蔵博士が、議会で訴えたとおりでした。女工たちは三十六時間も働かせられ、云いつけにそむけば天井から吊されるというような状況でした。日本のメーデーは、やっと一九二〇年即ち大正九年になってはじめて行われました。世界の国々から三十四年もおくれて、やっとはじめられました。

 ところが、そのメーデーさえも、日本では僅か十数回行われたばかりでした。一九三一年、昭和六年に、日本の政府が満州へ侵略戦争をはじめると同時に段々メーデーが出来にくくなって、戦争が進行拡大するにつれて、到頭メーデーという行事は昭和十一年に禁止されました。

 日本の政府が、戦争を行って、大衆の生活をやぶり家庭の平和を破壊する程度がひどくなればなるほど、メーデーを禁止したという事実を、みなさま、御婦人がたは、こんにちどうお考えになるでしょう。

 もしメーデーというものが、ただ歌をうたって、旗をたてて町をねり歩くだけのものでしたら、戦争の間、政府がそれを禁止する必要はありませんでした。メーデーに行進する正直な数十万の働く男女は、侵略戦争が日本の人民の幸福を根こそぎうちこわすものであるということを知っていて戦争に反対していました。自分たちばかりでなく、中国や満州の働く人民も、生産を破壊し、殺し殺される無惨な戦争をちっともしたがっていないのだということを知っていて、反対したから、メーデーの行進は禁じられて来たのです。

 いま、こうしてラジオをきいていらっしゃる日本じゅうの家庭婦人のうちに、何十万
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