った部分とそうでない部分とをよりわけたのと似ている。「あの人の心の中には、何か調子はずれなものがあってよ。……人間の中にそういうものの在るのに気がつくと、私はその人が肉体的に不具なような気がして来るの。」これは、ゴーリキイがインテリゲンツィアを書いた戯曲「別荘の人々」の中でカレエリヤという女が云う言葉である。ゴーリキイ自身がこのように感覚的に、而も彼の持前である鋭い、生活的な観察、熟考に裏づけられつつ、既成の文化から、発展的なものを吸収して行ったと思われるのである。
一八九八年、社会民主労働党が結成された年、既に「光栄の峰」へ向いはじめていたゴーリキイは政治的活動をしたという理由で逮捕された。「小市民」の上演が禁ぜられ、「どん底」でゴーリキイの名は世界的になっていた。そのおかげで、一九〇五年のかの日曜日の後、ペテロパヴロフスクの要塞監獄に投獄された彼が命を全うしてイタリーへ政治的移民として住むことが出来たのであった。
ほぼ二十五年に亙るレーニンとの友情が結ばれたのは一九〇七年のことであった。「母」を書いて後、「敵」がもう数年前書かれているのに、マクシム・ゴーリキイが一九〇八年から三四年の間にはいろいろ動揺して、召還主義の連中とカプリの労働学校を創立したり、創神派の弁護者としてレーニンに彼らとの妥協を求めたりしたことは、我々の注目をひきつける。この時代ゴーリキイは、ロシアを離れていたことからも一九〇五年後の民衆の成長のテムポと方向とを十分掴めなかったと同時に、今日の目で観察すれば、彼は或る意味で「私はそれを知っている」と確信をもって云い得るものが陥り易い一つの誤りに陥っていたことが理解される。ゴーリキイが、ロシアの民衆を最もよく知っているのは自分であると思っていたことは自然なことであろう。彼は一九〇五年の失敗を、大衆が十分組織をもっていなかったからであると知らず、外部からの力の不足を認識するにつれ、民衆は民衆の中の独自な力、神によって解放され得ると希望を求めたのであった。ゴーリキイの素朴な的をはずれたこの心痛を、創神派の連中は利用した。彼等のインテリゲンツィア的理論づけ、組立ての外観が、当時に於て一過渡期にいたマクシム・ゴーリキイを一時|搦《から》め込んだのである。四十歳になり、世界の作家ゴーリキイになっていた彼は、この時、二十代の生一本さを失っていたとともに、知
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