に蔵されている健康な人間性、大きい才能の強力な発芽として歴史の上に登場した若いゴーリキイが、計らずも当時の情勢に制約され、苦しんだ内的過程の有様は、今日の私達をもさまざまの示唆によってうつものがある。もし、無智と屈従とを意味する名称として解釈するその時代の習俗に従えば、ゴーリキイは既に盲目な民衆《ナロード》の一員ではなくなっている。さりとて、当時の急進的インテリゲンツィアたちが自身を指導者として外部から民衆に接触して行った考え方に従えば、ゴーリキイはそういう内容でのインテリゲンツィアとしてうけ入れることも出来ない。そんなに近いところで、デレンコフのパン焼工場の窖で日頃彼等の夢想している民衆の本質的な一典型が発育しつつあるという驚くべき現実の豊富さを、その時は学生達も知ることが出来なかった。もとよりゴーリキイ自身は知りようがない。ゴーリキイにとって切ない精神上の板ばさみが続いた。
 ゴーリキイの地下室仲間は、一般に、当時のインテリゲンツィアのもっている進歩性の値うちを、素直にうけ入れられない程生活に圧しひしがれていた。例えば、パン職人たちの唯一の歓びは、給金日に淫売窟へ出かけることであった。すると、そこの「喜びのための娘たち」は酔っぱらいながら彼等に、学生や官吏や「一般に小綺麗な連中」に対する悪意のある哀訴をした。それをきくと、「教育のある人達[#「教育のある人達」に傍点]に対する片輪の伝説」で毒されているゴーリキイのパン焼仲間は不可解なものへの嘲笑と敵対心を刺戟され毒々しい喜びで目を閃かせながら叫ぶのであった。
「ウー。教育のある連中は俺達よりわるいんだ!」
 こういう仲間に、ゴーリキイは祖母ゆずりの、聴きての心を誘い込むような魅力のこもった話しかたで、よりよい人生への可能の希望を目醒まそうとするのであった。
 この時代から、ゴーリキイの心が溢れて詩になりはじめた。それが重々しくて、荒削りなのはゴーリキイ自身にも感じられた。けれども、自分の言葉で語ることによってのみ「自分の思想の最も深い混乱を表現出来るように思われ」しかも、ゴーリキイは、その詩を、彼を「いらだたせる何ものかに抗議する意味で殊更粗暴なものにした。」この生々しく切迫した若者の心持を、彼の教師[#「教師」に傍点]である数学の学生は、さて、どう理解したであろうか。学生はこう云って非難した。
「言葉じゃないよ
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング