してしまったからであり、彼をそんな思いつめた心にしたのはサーシャの死んだ雀の祭壇と、ピンの植えられた靴とであった。その数日前の或る夕方靴屋の主人のところに働いていた病身の料理女が、サモワールを持ち上げようとして跼んだ拍子にのめったまま、全く突然死んでしまった。目の前でこれを見たサーシャとゴーリキイとは深い恐怖に打たれた。警官が来て、少し歩き廻って、心づけを貰うと出て行った。暫くすると、今度は荷車人夫と一緒にやって来て、料理女の足の方と頭の方に手をかけ、往来へ運び出して行った。
「ペシコフ、床を拭いて置きなよ!」
主人が命令した。
「夕方死んでくれて、まあ助かった……」
どうして夕方死んだからいいのか。小僧ゴーリキイには分らない。
夜、台所の隅で寝る時になると、サーシャがこれまでになく優しい調子で、
「ランプは消さないんだよ」
と云った。
「こわいのかい?」
サーシャは黙っている。やがて蒲団の中から頭を出して云った。
「煖炉の上へ行って並んで寝ようじゃないか」
「煖炉の上は熱いよ」
夜は静かな夜で、何だか夜そのものがきき耳を立てて何かを待っているようだ。
サーシャがやがて又云った。
「眠れないや」
「俺も、眠れない」
二人はいろいろ死人について云われている話をした。あたりは次第に寂しく、暗くなって来た。するとサーシャがいきなり、
「おい、僕の鞄を見せてやろうか」
と云い出した。小僧ゴーリキイは、疾《と》うからサーシャの鞄には好奇心を動かされていた。番頭とサーシャとが時々しめし合わせて、店のものをちょろまかした。そのことをゴーリキイは見ているのであった。
サーシャは勿体ぶって寝台の上に坐ったまま、ゴーリキイにその鞄をもって来させ、十字架と一緒に胸に下げている鍵で鞄をあけた。錠をあけ「熱いものか何かみたいに鞄の蓋を吹いて」中から下着をとり出した。鞄の中ほどまで色様々な茶の錫紙のレッテル、靴墨、鰯の空罐などがぎっしり詰っていた。
「何があるの?」
「今わかるよ……」
サーシャは鞄を両足で抱え、その上へかがみかかって祈祷をとなえた。「天の王様……」
今に玩具が現れるだろうと、ゴーリキイは思った。ゴーリキイは写真をとられたことがないと同時に、玩具というものは持ったことがなかった。玩具なんか軽蔑していたが、それは表向きで、玩具をもっているものを見ればやっぱり羨しかった。こんなひとかどの人間になったようにしているサーシャが玩具を持っているということは非常に嬉しかった。彼が恥しがっているとして、その極りわるさは、やさしい同感をゴーリキイに湧かせるのであった。
最初のボール箱が開かれた。中から、緑だけの眼鏡が出た。サーシャはそれをかけ、キットした様子でゴーリキイを見ながら云った。
「球がなくったって一向平気だ。これは、こういう眼鏡なんだから!」
ゴーリキイがたのんだ。
「どれ、俺にも見せて!」
「お前の目にゃ合わないよ、これは黒眼用だ。お前の眼は何だか白っぽいや」
次に出た空罎にはいろんなボタンがつまっている。サーシャはその三十七箇のボタンをみんな街路で拾ったのであった。第三番目の箱からは、これまた街路で拾った大きな真鍮ピン、長靴にうつ平鋲のちぎれたの、靴やスリッパーの扣金《とめがね》、真鍮の扉のハンドル、ステッキについている骨製の頭、「夢判断の神籤」その他の、つまり屑が沢山つまっているのであった。
「私が屑拾いや骨拾いをすれば、こんな下らないものなんか一と月のうちに十倍も集めることが出来る」サーシャの持物を見せて貰ってゴーリキイは、がっかりした。たよりない気がした。そして、堪らなくサーシャが可哀想になった。だが、サーシャはその一つ一つを丹念に眺めまわし大事そうに指先で撫でている。
この晩、自分の宝物で年下の小僧であるゴーリキイを驚かし、羨ませることの出来なかったサーシャは、庭が乾いたら、とても素晴らしいものをゴーリキイに見せる約束をした。次の祭日のとき、主人一家が午睡している隙に、サーシャがこっそりゴーリキイを誘った。
「行こう!」
二人は、庭へ出て、家と家との間の露路へ行った。そこにはひどく古い菩提樹が十五六株生えていた。どの樹の幹にも青苔がついていて、枝は黒く枯れたようにむき出しになっている。そういう菩提樹の一本の根元にサーシャは止った。それから、出目をグリグリ動かして隣の家の窓に人気のないのを見澄してから、根元の落葉をかきのけ、二つの煉瓦をどけた。ゴーリキイの目の前には一つの洞の入口が現れた。サーシャはマッチを擦って、蝋燭の燃えさしに火をつけ、洞の中へ差入れて、さて、云った。
「見ろよ! こわがるな」
ゴーリキイは大事をとりながら菩提樹の根の奥まったところを覗き込んだ。
サーシャの点《つ》けた三本の燃えさし蝋燭の青い光に満たされたその桶のなかぐらいの大さの洞の横手は、色硝子のこわれや茶器のかけら[#「かけら」に傍点]で一面に飾られている。真中の小高いところは赤い布で包まれていて、その上に小さい棺が安置されているのであった。棺には銀紙が貼られているが、そこから突出ているのは雀の小さな灰色の爪と鋭い嘴であった。棺の後方の聖台、その上の銅製の十字架。三本の燃えさし蝋燭のともっている燭台にはどれもお菓子の金紙や銀紙がはりつけられてある。洞の中には、燃える蝋の匂い、腐ったものの臭気、湿った地べたの匂いなどが一杯である。ぎごちない驚異の感情がゴーリキイをとらえた。然し、恐怖は起らない。サーシャが貪慾に訊いた。
「いいだろう?」
だが、一体これらは皆何のためなのだろう? ゴーリキイは率直にその疑問を呈出した。
「何にするんだい?」
「辻堂さ、似てるだろう?」そして「雀から聖骸がとれるかもしれないよ。罪科もないのに苦しみを受けた致命者なんだから……」
ゴーリキイは、いかにも彼の性質らしい現実的な問いを発した。
「あの雀は死んでいないのかい?」
「いや、物置に飛んで来たのを帽子でおさえてしめ殺したんだ」
「何だってさ!」
「何てことはないけど……」サーシャは、ゴーリキイの顔を覗き込んだ。
「いいだろう?」
「いいや!」
「どうして気に入らないんだ?」
「雀が可哀そうだもの」
この論判から掴み合いが持ち上った。ゴーリキイがサーシャの辻堂を破壊した。忽ち翌朝からサーシャの魔法――小僧ゴーリキイが朝磨かなければならない靴という靴の中の、ちょうど手を怪我せずにはいられないところにピンが植わっているという復讐がはじまった。スープをひっくりかえして火傷をする程、ゴーリキイはその靴屋の小僧という境遇、奇妙な従兄のサーシャを嫌悪し逃亡を欲したのであった。
後年ゴーリキイは、「人々の中」で、この插話の思い出を非常に色濃く、感情をこめ、ディッケンズの俤を浮ばしめるような筆致で描いている。
ゲーテが五つ六つの時、父親の鉱物標本を譜面台の上に積み重ねて祭壇をこしらえ、レンズで集めた太陽の光で香をたいて、その前に燻じ、万有の神に捧げたという話は、世界文学史の上に「黄金のように輝いた少年」ゲーテにふさわしい逸話として或る意味では伝説的な誇張をもって伝えられている。ゲーテの祭壇とサーシャの辻堂との間には殆ど一世紀近い歳月が流れている。ゴーリキイを憤怒させた哀れな中小僧サーシャの雀の聖骸の物語は欧州の科学的文化の進歩に対してロシアの社会の封建制、ギリシア正教がどのようにおくれたものであったか、そして、そのために民衆の想像力はどのような形で迷信に縛りつけられていたかということを、今日の読者である我々に驚きをもって啓示するのである。
靴屋の小僧をやめて後、ゴーリキイは製図師の見習小僧をさせられた。ヴォルガ通いの汽船の皿洗いをし、聖画屋の小僧となり、ニージニの定期市での芝居小屋で、馬の脚的俳優となったりした。日本では西南の役があった次の年、一八七八年(十歳)からの五、六年は少年ゴーリキイにとって朝から晩まで苦しい労働の時代であった。この時代、大人の利己心、仲間の性わるさにこづきまわされつつ彼は「多く労働した。殆どぼんやりしてしまうまで働いた。」
背中に繩をつけられた小猿のように、ゴーリキイの後についた紐のはじは、祖父か祖母の手に握られており、ゴーリキイの給料ともいえない僅の銭は皆そういう人々の掌に入ってしまうのであった。
祖母さんの妹息子の製図師のところから、虐待に堪えかねゴーリキイが二十哥握って逃げ出した後、働くことになったヴォルガ通いの汽船での皿洗いの仕事も十一のゴーリキイにとって決して楽な勤めではなかった。給料月二留。朝六時から夜中までぶっ通しの働きであった。ここでも四辺に満ちているのは暗い野蛮、卑猥、飽きもせず繰返されている喧騒とであったが、計らず「母なるヴォルガ」はその洋々とした流れの上で、ゴーリキイの生涯にとって実に意義深い「最初の教師」をひき会わせることになった。
皿洗いゴーリキイにとっての上役、太って大力な料理人スムールイが、年にあわせては背の伸びた、泣ごとを云ったことのないゴーリキイの天性に何か感じるものがあり、彼に目をかけた。午後の二時頃、暫く手がすくと、彼は号令をかけた。
「ペシコフ、来い!」
スムールイの船室に行くと、彼は小さい皮表紙の本を渡した。
「読んで見な!」
ゴーリキイはマカロニ箱の上に腰かけて声高く読む。「……左胸のあらわなるはハートの無垢なるを示し……」
すると、煙草をふかしつつ仰向に横になっているスムールイが、口を挾む。
「誰のがあらわなんだ?」
「書いてないよ」
「女の胸だろう……。チェッ、放蕩者ばっかりだ!」
最初のうち、この「ペシコフ、来い」の号令はゴーリキイを苦しめた。読んでいるうちにスムールイが眠ってしまったように見える。すると彼は音読をやめた。否応なく読ませられることから胸のわるくなるような思いのするその本を眺めまわしていると、スムールイは、嗄れ声で皿洗い小僧に催促した。
「お――、読みな」
スムールイの黒トランクの中には『ホーマー教訓集』『砲兵雑記』『セデンガリ卿の書翰集』『毒虫・南京虫とその駆除法、附・此が携帯者の扱い方』などという本があった。始めの方がちぎれて無くなってしまっている本。終りがない本。そういう本がつまっている。
スムールイはゴーリキイに向って「口癖のように云いきかせた。」
「本を読みな。わからなかったら七度読みな。七度でわからなかったら十二遍読むんだ!」
そして、自分や、周囲のものが日から日へと過している無駄な生涯を顧みて、肥った獣のように呻き、深い物思いと当途のない憤りに沈んで荒っぽく怒鳴るのであった。
「そうだ! お前には智慧があるんだ。こんなところは出て暮せ!」
「豚の中にいては、お前の身が台無しだ。俺はお前が可哀そうでならねえ。奴等もみんな可哀想でならねえ」
このスムールイは、呆れる程ウォツカを飲むが酔っぱらったためしがなかった。水夫長も料理人も、船じゅうのものがこの男の怪力と一種変った気風に一目置いていた。夕方、スムールイが巨大な体をハッチに据えて、ゆるやかに流れ去って行くヴォルガの遠景を憂わしげに眺めながら、何時間も何時間も黙って坐っているような時があった。こういう時の、スムールイを皆が特別に怖れた。
禿頭の料理番が出て来て、そうやって坐っているスムールイを見ると、やや暫く躊躇した後、遠くの方から声をかけるのであった。
「――魚がどうもよくねえんだが……」
スムールイは顔も振向けず歯の間から返事した。
「そんなら漬物で和《あ》えろ……」
「でも魚スープか蒸焼を注文されたら?」
「作れ。どうせ食う」
ゴーリキイには、こういう場合のスムールイの心持が通じた。スムールイを憐む感情が湧いた。ゴーリキイは自分の心にも似たような黒い、激しいものが答えられない疑いとして煮え立つことを既に幾度か経験しているのであった。
例えば、汽船の皿洗い小僧として、自分という人間は朝から夜中まで皿を洗う。鉢を洗う。ナイフを磨き、フォークと匙を光らせ
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