記憶の前には、中川一政氏によって装幀された厚い一冊の本と、ゴーリキイの如何にも彼らしい「なに、結構読める」と云った声とがまざまざと結びついて生きていて、その思い出はゴーリキイという一人の大きい作家の生涯の過程を私に会得させるために、驚くほど微妙な作用をしているのである。
ソヴェト同盟の文学史に於て、マクシム・ゴーリキイは、例えて見れば最後の行までぴっちりと書きつめられ、ピリオドまでうたれた本の大きい一頁のような存在である。私たちは、自分たちに課せられている頁の数行をやっと書いたに過ぎない。ゴーリキイの生き方、作家的経験から若い時代の生活者、作家の汲みとるべき教訓は実に多いと思われる。今日までに刊行されているゴーリキイの作品の全集や、最近の文化、文学運動に対する感想集等の外に、今後はおそらく周密に集められた書簡集、日記等も発表され、ますます多くの人にゴーリキイ研究の材料と、興味とを与えることであろう。
既にソヴェト同盟ではゴーリキイの文学的遺産の整理、研究のためにステツキイを委員長として特別な委員会が組織された。
マクシム・ゴーリキイの生涯は、人類の歴史が今日の段階に於て輝やかしき実を結ばせた文学的大才能の一典型として、過去の世界文学史に現れたいかなる天才者に比べても、本質的に全く新しい意義をもっている。下層階級出身のゴーリキイが波瀾多いジクザクの道を経てその晩年には遂に人類的な規模で進歩的文化の地の塩となり得た迄の過程には、とりも直さず十九世紀後半(明治元年頃)から今日まで、夥しい犠牲に堪えつつ不撓な精神と情熱とをもって、自身を縛る鎖を断ち切るために闘いつづけているロシア大衆の意志とその勝利がまざまざと反映している。ゴーリキイは歴史の正しい進展のために文学の仕事をもって献身し、その歴史の光輝ある達成のうちに作家としての彼自らをも完成させた。歴史性と箇性・才能との相互関係について未曾有の典型を示しつつ、彼の六十八年の生涯を終ったのである。
マクシム・ゴーリキイの人間及び作家としての全業績、及びその上に包括されるものとして生涯の或る時期に一度ならず経験された絶望、動揺、逸脱の性質などを若き時代が十分の尊敬と判断力とをもって究明すべき所以は、それらの現象の殆ど悉くが古い文化の重圧的影響と身をもって組みうつ未熟な而も驚くべき発展性をもったプロレタリア文化の一歩後退二歩前進の姿であるからである。窮極に於て箇性はいかなる過程によって完成されるものであるかという歴史的事実[#「事実」に傍点]を語る高貴な人間記録であるからなのである。
幼年時代
マクシム・ゴーリキイは、一八六八年(明治元年)三月二十八日、ロシアでは最も古くから発達した中部商業都市の一つであるニージニ・ノヴゴロド市に生れた。本名は、アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシコフと云った。父親はマクシム・ペシコフ。母の名はワルワーラと呼ばれ、彼は二人の長男として生れたのであった。若い、しっかりした指物師であった父親のマクシムはゴーリキイが五つの時ヴォルガ河を通っている汽船の中でコレラで死んだ。この若い父も当時のロシアの社会に生きる勝気な青年らしい短い物語をもった人であった。
マクシムの父親というのは陸軍将校であったが、或る時その部下を虐待した廉でシベリヤに流されたという男である。その時分のロシア軍隊生活と云えば有名なひどいものであったにもかかわらず、その中で部下に対する虐待を問題とされ、処分されたということは、この将校の惨酷が一通りのものでなかったことを想像させる。息子であるマクシムは、家庭における父親の悪い性質の目標とされた。彼は堪え切れず十七歳になる迄に五度も家出をし、最後に、そして永久に父の家を見捨てることに成功した時には、ニージニの町へ落付いた。二十歳の時、もうマクシムは一人前の指物師、壁紙貼職人であった。彼が働いている仕事場は偶然、ニージニの職人組合の長老、染物工場主カシーリンの隣りである。
或る夏のことであった。カシーリンの妻アクリーナが娘のワルワーラと一緒に庭で何心なく夷苺《のいちご》をとっていると、隣家との境の塀をやすやすのり踰えて一人の逞しい立派な若者がこっちの庭へ入って来た。見ると、髪を皮紐でしばった仕事姿のマクシムである。アクリーナが、おどろきながらも天性の温かい調子で訊いた。
「どうしたね、若い衆、道でもないところから来てよ!」
するとマクシムはアクリーナの前に跪いて云った。
「アクリーナ・イワーノウナ。俺達を助けて下さい。俺達は結婚したいんだ」
ワルワーラはと見れば、自分の手にある籠の夷苺のように体じゅう真赤にして、庭の林檎の樹蔭にかくれながら、マクシムに何か合図しながら、眼には涙があふれそうになっている。
「私たちはもう、
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