のパン焼職人の生活の印象づよい具体的な描写、插話が芸術化されている。
 パン焼職人達は「最初の日から、彼をおかしな道化者、又は面白い話をするひとに対して子供が示すような素朴な愛でもって」若い、力持ちの新しい仲間を見た。ゴーリキイは、彼等の気に入る物語の間に、「もっと楽な、意義のある生活の可能に対する希望をふき込もう」とした。しかし、時に、彼等は猛烈に悪意をもってゴーリキイに反駁した。
「だが、娘達が奴等について云うことたあ、まるっきり違うぞ!」
 彼等の性わるな嘲弄の中には、ゴーリキイがまだ女の愛撫を経験したことがないことが、最も容赦ない材料としてとりあげられるのであった。

 崖上の小さい、だがその存在の意味は大きいデレンコフの店では、やがてパン屋を開くことを考え出した。この事業はアンドレイ・デレンコフによって精密に計画され、一|留《ルーブル》ごとに三分五厘の利益を得るように企図された。ゴーリキイはセミョーノフの大きい汚い地下室から、いくらかましな小さいデレンコフの地下室へ移って来た。「四十人の職人仲間の代りに、一人のパン焼職人ルトーニンの『助手』兼仲間のものとして」パン焼が麦粉、卵、バタ、出来上ったパンなどを盗まないように注意するのが今やゴーリキイの仕事となった。
 パン焼職人は、勿論、盗んだ。仕事の最初の夜に卵を十箇、三斤ばかりの麦粉とかなり大きいバタの塊とを別にして置いた。
「これは――何にするんだね?」
「これはある娘っ子につかうんだよ」親しげにそう言い、ルトーニンは鼻柱を顰めてつけ加えた。「とてもいい娘っ子だ!」
 この男は、どれだけでも、どんな恰好ででもシャベルによりかかってでも眠ることが出来た。そして、眠りながら彼は眉を挙げ、彼の顔は不思議に変って、皮肉に驚いた表情をした。地べたの底に埋められている宝物の話、夢の話、それがこのパン焼の話題である。パン店の方では仕事に不馴れなデレンコフの妹マリアとその友達の、バラ色の頬をした娘とが商売している。
 ゴーリキイは、朝早く、焼きあげたパンをデレンコフの店へ運び、更にいろんなパンの詰った二プードの籠をもって神学校へ走って行った。時によると、その白パン籠の下に帳面が入っていることがある。それを、ゴーリキイは或る学生の手へうまく押し込んでやらなければならぬ。時には、行った先で、学生達が本や紙片を、ゴーリキイの籠の
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