内自治権を奪い「学生生活のあらゆる微細な点まで干渉する学監、副監督、守衛等によって監視され、更に警察の監視の下に置かれるようになった」のである。この事情が、デレンコフの収支を次第に激しく喰いちがわせる。デレンコフは配慮ぶかく明るい色の髯をひねりながら云った。
「何とか考えなけりゃならない」
 そして、罪ありげに微笑し、重々しく溜息をついた。ゴーリキイは、デレンコフが負っている重荷を見た。彼は一度ならず、いろいろな云いまわしでデレンコフに訊くのであった。
「何故そんなことをするんです?」
 デレンコフはその答えとして民衆の苦しい生活について「本からとって来たように[#「本からとって来たように」に傍点]、不得要領に答えた」
「でも――みんなは知識を望んでいるんですか?」
「どうして。勿論さ! 第一、君は望んでいるだろう?」
 そうだ。ゴーリキイは――望んでいた。
 だが、この陰翳に富んだ、逆説的な分子のこもった会話は、当時のゴーリキイが民衆、学生、デレンコフや彼自身の関係に対して抱いていた複雑な感情の深淵を何と微妙な閃光で我々に啓いて見せることであろう。
 これは、ゴーリキイが、セミョーノフのパン焼工場で、一日十四時間ずつ労働し、肉体的に苦しく、道徳的には一層苦しい生活の時代のことである。冬になって、ヴォルガの稼ぎのなくなったゴーリキイが「外側から犇々《ひしひし》と鉄格子で覆われ」「日の光は粉の埃で一面の窓硝子をとおしては届かない」地下室に降りて行った時、彼にとって「それを見、それを聞くことが既に必要となった人々との間には『忘却の壁』が生い立った。」「私の大学」の中で、ゴーリキイは自制した悲しみをもってこの頃を追懐している。「彼等の中の誰も私のところに、仕事場に来てくれるものはなく、私は一昼夜十四時間も仕事をしているので、普通の日にはデレンコフの所へ行くことが出来なかった。休みの日には或は眠り、或は仕事仲間と一緒にいた。」と。
 生活のためパン焼工場へ行った十七、八のゴーリキイが、既に彼等に会わなかった前のゴーリキイではなくなっているという重大な事実、及び暗愚と無恥との中におしこめられて精神的に孤独な境遇に暮すことがゴーリキイにとって、従前とは異った苦痛となっていることなどを不幸にも彼の教師達[#「教師達」に傍点]はちょっとも洞察しなかった。
 ロシアの民衆の中に蔵され
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