さわった。彼のまわりでは主人が盗むばかりか、職人達が主人をちょろまかしている。ゴーリキイは何も所有したくなかった。ベランジェの小さい一巻とハイネの詩集ぐらいが彼の全財産である。
 彼の周囲の人々はすべて、卑劣な奴も、智慧のある奴も狡い奴も、ゴーリキイに、彼等と一緒に住むことは出来ないと思わせるような人々ばかりであった。「何とか他に生きようはないものだろうか? 何処へ行ったらいいだろう。」ゴーリキイの全心にこの堪え難い囁きが、日夜響くようになって来た。ゴーリキイが折々心の内を打あける老職人のオシプはゴーリキイにすすめた。
「啄木鳥《きつつき》は頑固だが、怖ろしくない。誰もあんな鳥を恐れはしない。そこで俺は心からすすめる、修道院へ行きな」
 然し、修道院へは行きたくない。ゴーリキイは泣きたいような気持になり、十五歳になったばかりの自身を、もう永く生きた者のように感じる。酒を飲まず「女に絡まらず」青年になったゴーリキイの気紛れを遮っているのは書籍なのであったが、読書すればする程、一般人の暮しているような詰らない必要のない生活をして行くのがいやになるばかりである。しかも、心の内側にぎっしりつめこまれている人生からの雑多な印象、驚くべき多読からの不秩序な蓄積、いろんな疑問、悩みを択り分けるだけの力も手段もない。それらの精神の重荷が、ゴーリキイをひょろつかせた。不幸、病気、泣きごと、流血、殴打、ひどい言葉の愚弄、それらはどれもゴーリキイに堪え難く、肉体的な苦痛を引起すのであった。だが、彼の生きる暗い環境の中ではその苦しさが常に極度にまで緊張させられるようなことが頻々として起った。苦痛が嵩じて「一種冷やかな狂暴に生れ変って来ると、今度は若い」ゴーリキイ自身が「獣のように荒れくるった。そして後から胸の痛い程恥しく思う。」
 心に痛みをもってゴーリキイは店から抜け出し、悠大なヴォルガの落日を眺めた。本で知った他の都会の生活のこと、風変りな生活をしている外国のこと、地上の大さの感じがいつしかゴーリキイの心を鎮め、彼の周囲でゆっくり単調に煮えている臭いような生活とは違った生活の可能性が想われて来る。
 大地全体に、そして自分自身に、程よい一撃をくらわしてやりたくなる。そうしたら一部のものは、自分自身も、悦ばしい旋風のように動き出すだろう。ゴーリキイは、苦痛と期待との間で揺れる心で沈思する
前へ 次へ
全63ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング