誰かが屋敷内で馬の手綱をひいて駈けて行く。老婆が、本会堂へ泥棒が入ったんだよ、と怒鳴る。主人がそれを制し、
『おっ母さん怒鳴るなよ。あれは警鐘《はやがね》じゃないよ!』
 主人の弟ヴィクトルが寝棚から降りて来て、着物を着ながら呟いている。
『俺には何が起ったのか解っている。ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と分っている!』
 主人は、火の手が見えるか屋根へ登って見ろと云いつけた。」
 ゴーリキイは屋根へ出て見たが火の手は見えぬ。静かな冷たい夜気の中で、ゆるやかに鐘が鳴っている。暗くて姿の見えない人々が雪を軋ませながら走った。橇の滑り木が鳴る。鐘は気味悪く鳴りつづけている。この夜の地方の町らしい描写を、ゴーリキイは実感をもって記憶に呼びおこしている。主人が戸外へ出ようとすると、主婦がこわがって、
「貴方行かないで! ね、行かないで……」
とすがりつく。男連はそれを振り払って往来へとび出した。ゴーリキイがサモワールの仕度を云いつけられて台処で働いているところへ主人が玄関へ飛び込んで来て「太い声で云った。
『皇帝が殺されたんだ!』
 ヴィクトルは帰って来ると、詰らなそうに外套をぬぎながら怒って云った。
『俺は戦争だろうと思ったのに!』
 皆は揃ってお茶を飲んだ。そして安らかに、とは云え、声を潜めて用心深く語り合った。」
「二日の間彼等はひそひそと囁き合っては何処かへ出て行った。またこちらへも客が見えた。そして何か詳細に語りあった。私は何事が起きたのか知りたかった[#「私は何事が起きたのか知りたかった」に傍点]。けれども家の者は私から新聞を隠した[#「けれども家の者は私から新聞を隠した」に傍点]。そこで」知り合いの兵卒に「皇帝の殺されたわけを訊いて見た。彼は声を潜めて答えた。
『そのことは口にしちゃいけないんだ』」
 そして、ゴーリキイは、「これらのことは忽ち消えて日常の瑣事に覆われてしまった。」とその含蓄ある条を結んでいるのである。その事件があってから三十四年の後(一九一五年)に至ってゴーリキイは「人々の中」でこの記憶に触れているのであるが、この事件の経験のしかたからはっきり自覚される筈の当時の彼の事情――一箇の小さな人間として彼自身が息苦しく封じ込まれていた環境の小市民性、及びそれが彼の旺盛な内的発展の一面を直接間接に鈍らせていたこと等については、特別何ごとをも云っていな
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