の時間、ゴーリキイは口論しないときには「退屈し切っている人々の胃の働きをよくするために」『モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]新聞』の隅から隅まで音読して聞かせた。皆は熱心にそれを聞いた。その癖片はじから忘れたり、事件を混同したりして呻くのであった。
 やがて、ゴーリキイは主人達の寝台の下へ突込まれたままになっている『絵画評論』『火』などという雑誌を、台処へ持ちこむ権利を獲得した。しかし、台処の蝋燭は毎晩居間へ持って行かれてしまった。ゴーリキイは、さりとて蝋燭を買う金がない。ゴーリキイは一工夫をこらした。燭台の蝋をそっとかき集め、それを鰯の空罐に溜め、少し燈明油を加えて、糸の縛ったのを燈心にした。それは毎夜煖炉の上で燻った燈火となってゴーリキイと本とを照した。本の頁を繰るたびに、弱い赤っぽい焔は揺れ、顫える。ひどく臭く、煙は目にしみた。けれどもこういう不便は彼の前に次第に拡がりゆく世界の知識に対する歓喜の前には、決して堪えられぬものではなかった。本と一緒にいる時だけゴーリキイがそこから逃げ出したいと思いつづけている製図師一家のだらけて、悪意がぶつかり合っている環境が遠のいた。塵芥《ごみ》捨場となっている穢い窪地。青いどろどろの水溜り。サーシャの呪や、番頭の盗みや、忘られぬ靴屋の主人の褐色の家が絶えず真向うに見えているという窒息的な目の前は広々と拡大せられ、プラーグやロンドンの都市の美しさが、そこで行われている生活がゴーリキイの世界の中のものとなって来た。そこには、市街の真中で無遠慮に悪臭を放っている塵芥捨場などはない。又、半年の間続く厳しい冬もなければ、本を読むことさえ罪になるという正教の大斎週間のような納得のゆかない習慣もない。パリでは、馬車の御者、労働者、小僧のような「下層民」でもゴーリキイが毎日目撃しているニージニの町などのそれとは違った暮しをしており、「下層民」でも極めて大胆に紳士と口をきき、あっさりした態度で自由に振舞っている。ゴーリキイは大デューマの小説を読んだ。グリンウッドを読み、バルザック、ゴンクール、オータア・スコットなどの作品を、貪り読んだ。そして「屡々読みながら泣いた。これらの人々はそれ程愛らしく親しかった。そして、馬鹿げた仕事でひきずり廻され、馬鹿げた悪態で辱しめられる小僧であった私は、大きくなった時には、これらの人々を助け、正直に彼
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