でも忘れなかったこの時代の「自分の祈祷文」の中に一つこういう詩があった。
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神様、神様、遣り切れない
はやく大人にして下さい
このまんまでは辛抱が出来ない
首をくくっても、見遁して下さい。
見習も、うまく行かない。
鬼の人形マトリョーナ婆
吠える、吠える 狼のようだ
ほんとに生きててもはじまらない!
[#ここで字下げ終わり]

 書物はこの境遇の中で、ゴーリキイに生きる力の源泉となったと同時に、限りない屈辱、軽侮、不安を蒙る原因となった。
 製図師一家と同じ建物に住んでいる裁縫師のお洒落で怠者の妻からゴーリキイはこっそり本を借りた。それはフランスの通俗小説であった。主人達の目を掠めて、頬骨の高い、鼻の低いおでこに青痣のついた小僧ゴーリキイは皆の留守の間に、或は夜、窓際で月の光で読もうとした。活字がこまかすぎて、明るい月の光も役に立たぬ。そこで棚の上から銅鍋をもち出し、月の光をそれに反射させて読む工夫をした。これは却っていけないので、ゴーリキイは台処の隅の聖像の下へ突立ったまま、燈明の光で読んだ。この頁では歓喜し、次の頁で憤激しつつ読むうちに疲れが出て、床にころげたまま寝込んでしまった。眼がさめて見ると、鬼のマトリョーナ婆が怒鳴っている。落ちていた大切な借り物の黄色い本でゴーリキイの肩をどやしつけ、飯の時は家じゅうが、主人迄も、読書の有害無益と危険とを説教した。
「鉄道を破壊したり、人殺しを企てたりするのも本を読んだ男だ」
 こういう家の大人共の態度によって、ゴーリキイは本というものに対し、一層重大な秘密な価値を感じるようになった。ゴーリキイは、教会の懺悔僧に「禁止の本は読まなかったかね」と訊かれたことを思い出した。スムールイが大きな腹をゆすりながら「正しい書物に出くわさなけりゃならねえ」と云ったのを思い出す。小僧ゴーリキイの頭の中では、漠然とそれらの印象が混り合って燃え、秘密の門の前に立っているような、どこか気がふれたような調子になった。
 裁縫師の女房から本が借りられなくなると、ゴーリキイは若いのらくら男女の寄り合い場となっている街のパン屋で、副業に春画を売ったり猥褻な詩を書いてやったり、貸本をしたりしている店から、一冊一|哥《カペイキ》の損料で豆本を借り出した。そこの本はどの本も下らない、嘘とわかるようなものばかりだった。少しましなのは昔の
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