は益々辛くなって行くばかりである。
汽船では働いている仲間が、精神を痺らす奴隷的な労働と泥酔との暇に、仲間同士性悪な悪戯をしかけるばかりでなく、袋を背負い、背中を曲げ、十字を切りながら乗りこんで来る船客たちも、十二歳のゴーリキイの心に一種名状し難い侮蔑的な重苦しい感じで圧えつけ、夜眠っても忘れることの出来ない深い憂鬱をひろげた。船のどっかで喧嘩が始ったとなると、船客たちは忽ちそのまわりに集った。そして口笛を吹いたり、嗾《け》しかけたり。その喧嘩が厭わしく痛ましければ痛ましい程喜びに酔ったように見える彼等。船の機関の何処かが破裂して甲板が水蒸気で濛々となったりした時、実際の危険はなくても、その予感でもう怯え、戸惑い、喚き立てる船客等の恐怖心のつよさ。しかも、喧嘩も、恐慌もない時には、低いテントの下に坐り、或は寝そべりながら飲んだり食ったりし、親しげに真面目に語り合いながら河の面を見たりしている彼等。
ゴーリキイにはこれらの人々が「善人なのか、悪人なのか、平和好きなのか、悪戯好きなのか、又どうしてこんなに酷い、飽くことない意地悪なのか、どうしてこう意久地なくおとなしいのか」分らない。そして、この如何にもおとなしく、見るも気の毒な程素直な灰色の人々が、突然「その従順の殼を突き破って、むごたらしい、無分別な、そして大抵は不愉快極まる乱暴を爆発させるのを見るのは、実に意外であり」ゴーリキイの心に不可解な人生の姿の怖ろしさを覚えさせるのであった。
声をあげて泣き出しそうな心持でスムールイとわかれ、下船した後、ゴーリキイは再び因業な嫁姑のいがみ合っている元の製図師のところで働くことになった。
日夜妻と母親との口論に圧しつけられながら食堂のテーブルに製図板をのせて、ニージニの商人の倉庫だの店の修繕だのの図を引いている主人は、遠縁のゴーリキイに、約束どおり製図の修業をさせようとした。耳に鉛筆を挾み、長い髪をした主人が、或る日、両手に厚紙の巻いたのと、鉛筆、曲尺、定規とをもってゴーリキイの居場所である台処へやって来た。
「ナイフ磨きがすんだら、これを描いて御覧」
手本の紙には、沢山の窓と優美な飾のついた二階建の家の正面が画いてある。ゴーリキイは「本当の仕事と修業の始ったのを悦び」すぐ手を洗って修業にとりかかった。定規をつかってすべての水平線を引いたところまでは上出来であった
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