すむとみんなは気を失うまで酔っぱらう」のであった。
 一八七〇年代の高揚は去り、工場の中で「同志」とか「同僚」とか云う言葉はこの時代には個人的な意味しかもたなかった。密告は工場内では普通のことになっていた。職場で使う道具さえ、目をはなせば盗まれた。ポヴェドノスツェフの影は工場の内へも圧倒的に差し込んで来た。ナロードニキ達をシベリアへ、要塞監獄へどしどし送る一方で、坊主が工場の中へ入りこみ、「凡て疲れたる者、重荷を負へるもの、我に来れ。我汝を憩はせん」と叫びながら「禁酒会」を組織しているのであった。一八九〇年代に入ってロシアに正当な労働運動が成長した時、「インテリゲンツィア十人に対する一人」の労働者として卓抜な活動をしたシャポワロフは、その価値高い自伝の中で、飾りなく、しかも忘れ難い憤りによって歯の間から云っている。「毎日毎日、私は烈しい労働をした。そして私の頭の働きは鈍って行った。」「禁酒会が私を誘惑した。労働者の孤立はそんなにもひどかった。その頃の工場には政党も、協同組合も相互扶助金庫もなければ、どんなアジテーションもプロパガンダも行われなかった。」十六歳だったシャポワロフは、原始キリスト教の理想を実現して、貧富の相異が消せるかと思ったのであった。
 ゴーリキイがカザンで、デレンコフの店の裏の小部屋に坐ってナロードニキの討論に耳を傾けている、その時、シャポワロフは遠くペテルブルグにあって仲間の労働者に聖書の説明をしてやりながら、その中から次第に自然科学へ関心をひかれて行きつつあった。最も熟練工の多いワルシャワ鉄道大工場の金属工のなお沢山の者が、地球は円いのか、扁平なのか、動かないのか、それとも太陽の周囲を廻転するのか等とシャポワロフに質問した。バイブルはこれらのことを正確に説明するには何の役にも立たない。その上工業恐慌の影響で、どの工場でも労働者の賃銀が下がる一方であった。賃銀切下げは親方の勝手な才量で行われた。キリスト教とトルストイとは悪に報ゆるに悪をもってするなと云う。禁酒会員であるシャポワロフは、この教義と一日一ルーブルの稼ぎで、母、妹、二人の弟を養わねばならない現実生活が彼の全身に囁き込む生きた抗議との間に生じる矛盾で苦しんだ。
 ゴーリキイは、恐ろしい乱読と廻り路を通してではあったが、ともかくこの時代には世界の代表的古典文学の或る物を読み、チェルヌイシェ
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