で、決して過去の物語ではなく、明日へ向って特殊な社会的意義をもっている理由である。
世界を震撼させた「十月」がロシアに来た。
レーニンを指導者とするこの偉大で困難きわまるプロレタリア革命の時期に、小市民出身であり、自身率直に告白している通り「怪しげなマルクシスト」であったゴーリキイは、きわめて複雑な経験をした。彼は永い革命活動の閲歴と正当な社会に対する理解によって、もちろんこの革命がロシア人民のための「自由への道」であろうことを見抜いた。当時彼が主宰していた『新生活』の紙上では、ボルシェヴィキの政策について正しい理解をひろめるため、またレーニンに対する逆宣伝の撃破のため、精力的な活動を惜しまなかった。人民委員会の顧問となって、ソヴェト政権のもとに行われる新文化建設のために、「学者の生活改善委員会委員長」となり、また『世界文学叢書』の刊行を指導した。十月革命と同時に亡命したアンドレエエフやクープリンを高給でソヴェト同盟での活動に召集しようと努力したのもゴーリキイであった。
レーニンが、大衆の不幸というものに対して妥協のない憤激を持ち、その不幸はとりさることが出来るものであり、且つ大衆自身の力によってこそ取り除かれるものであるという明白な確信の上に立っていることは、深くゴーリキイを感動せしめた。
しかしながら、ゴーリキイには当時のロシアの社会事情ではソヴェト政権が階級としてのプロレタリアートの独裁のもとに樹立されなければならないということは、政治的問題としてなかなか腑に落ちなかったらしい。彼は、インテリゲンツィアというものは無条件にいつも進歩的であるように考え違いしていた。そのために新しい社会は、無差別にインテリゲンツィアと革命的労働者との階級的混成指導部によって建設され得るのではないかという混乱した見解をもった。レーニンと意見が一致しかねたのはこの点であった。ゴーリキイは過去において、まだ労働階級の自覚が乏しかった時代、ロシアの革命の主導的な力はインテリゲンツィアであったという、社会史の一定の時期にあった現象に執着してこの見解をもったのである。
ゴーリキイの「ヴェ・イ・レーニン」はまことにゴーリキイらしい飾り気なさ、温かさをもって彼とレーニンとの意見の相異についても書いている。ゴーリキイの誠意に満ちた、ひるむことのない、だが決してロシアにおけるプロレタリア
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