か私より前に訪ねて来た者と話しながら食べた残りであろうか。ゴーリキイのように全大衆から歓迎をされている客の前からも、一片の白パンのトーストの残りをそこに残していることは如何にもその頃の生活の気分を現している。すぐ隣りの部屋に通じるドアが開いてゴーリキイが息子と連れだって出て来た。実に背が高い。広い肩幅である。薄ねずみの柔かいシャツを着て同じような色の上衣を軽く着ている。彼は大きいさっぱりと温い手で私の手をとり、そこの椅子にかけさせた。写真で馴じみの深い髯、灰色がかって大変に集中的な表情をもった眼、額の二本の横皺、それらは少し、しわがれたような、しかし充分抑揚のある深い声と共に今私の前にある。私はゴーリキイの総体を、日向でかすかに香ばしい匂いを放っている年老いた樅の木のようだと感じた。
私たちは少しずつソヴェト文壇の話や、日本の文学のこと、ピリニャークの書いた日本印象記についての不満足な感想等を下手なロシア語で話した。ゴーリキイは真面目な注意を傾けて云うことを聞き、フム、フムといい、短く分りやすい云い廻しで自分の意見を示したりした。日本の話のついでに、ゴーリキイは、日本の婦人が出版権を持っているかということを聞いた。私は持っていると答え、何故それを訊いたかと聞き返したら、ゴーリキイは、ムソリーニはイタリーの婦人に出版の自由を与えていない。若し女の人が本を出したければ父親なり夫なり、法律上の保護者の許可がなければならないことになっていると話した。そして「彼女らは、そんな生活をしている」と、三言で結んだ。話しているとそういう短い、全く民衆的な言葉をゴーリキイが非常にたくみに、表情的に使うのに驚ろかされた。例えば、ピリニャークをどう思うかと私がたずねた時、ゴーリキイは一寸肩をそびやかすようにしてたった二言、「ふうむ。あれか。」という意味のことを云った。その二言三言が無限の含蓄をもって対象を射通しているように感じられ、私はロシア語の表現力と、それを非常に生粋に生かして使うゴーリキイの、作家としての特質を今日も鮮やかに印象されている。私がゴーリキイと会ったのはその時一ぺんであった。ゴーリキイは間もなくイタリーへ戻り、一九三二年に再びソヴェトへ帰った時には彼は全くロシアで生涯を終る決心をもって帰り、世界的に祝われた文学生活四十年の祝祭を機会にゴーリキイは六十四歳の老齢にも拘らず
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング