れた。ゴーリキイは偉大な芸術家である、レーニンをも恐れなかった、だからレーニンは正直なゴーリキイの声を恐れてイタリーへやったのであった。そう考えている彼等は、今度ゴーリキイがソヴェトへ帰って何を見るか、そして何を云うか、終局に自分自身をどう処置するか、ということを貪慾な目つきで見守っていた。彼等が見出そうと欲したのは五年目に見るソヴェトに対するゴーリキイの失望と、偉大な声楽家シャリアピンが金の儲からぬロシアを捨てて、しかも古いロシアの嘆きの唱を歌いつつ稼いでいるように、ソヴェトを見限るであろうということであった。
一方ソヴェト同盟ではゴーリキイが帰って来ることが決定すると同時に、最も広汎な規模でその歓迎の準備を始めた。ゴーリキイに関する特別な展覧会が各地で行われた。労働者クラブの「赤い隅」や、文学サークルが特にゴーリキイに関する夕をもったばかりでなく、人民文化委員会芸術部、コム・アカデミイの芸術部、国立出版所、作家団等が協力してゴーリキイ展を開いた。ゴーリキイの当時までの全著作、原稿、様々の写真等が陳列され、興味の深い統計表も出品された。それはロシアの大衆がどういう作家を一番愛読しているかということについて統計をとったものであった。古典作家ではトルストイが第一であった。現代作家としてはゴーリキイが第一を占め、外国作家ではジャック・ロンドンが最も多く読まれていることが示されていた。そのゴーリキイの作品の中でも「母」が第一位を占めていたのは意味深い印象を与えた。「母」は知られている通り、ロシアの民衆の歴史にとって忘れることの出来ない一九〇五年に書き始められたものであって、この作品に於てゴーリキイは始めて、確固とした階級性を自身の作品に導き入れた。そしてその後に続いた苦しい反動時代を通して民衆に刺戟と鼓舞を与えた。作品としていろいろ批判さるべき点もあるが、ゴーリキイがその時代に「母」をロシアの大衆に贈ったということは、全く、レーニンが簡単で含蓄のあるほめ言葉を与えた通り「時宜に適った」功績であった。
その作品がおよそ二十年後の当時にあってもなお一番青年に愛されているということは私の心を動かした。面白いことにこの「母」を、プレハーノフが大変悪く批評したことである。プレハーノフはこの作品が発表された当時、既にメンセビキの頭領としてはっきりレーニンの党と対立していた。プレハ
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