に身をうちこみ、熱心に努力したマリアがどうして、無気力で趣味も低いナポレオン三世時代の古いサロンばかりをたよりにして、苦しめられていたのだろうか。一八六三年にマネは有名な「草上の昼食」をサロンに出して落選し、別に「落選作品のサロン」を開いて、ヨーロッパの絵画の世界に全く新しい生命をふきこんだ。今日は知らぬ人のないアメリカの画家ジェームズ・ホイスラーもこの落選作品のサロンに出品した。マネ、モネ、ピサロ、ルノアル、ドガ、シスレー、ギョーマン、バジールなどが集って、印象派の運動がおこっていた。マリアは、最後に自分のいのちを注いだ芸術の世界においてさえ、いわゆる貴族とサロンというくされ縁を切れなかったのだろうか。マリア自身の内部にも、ある時は熱くある時は冷たい強烈な生と死との格闘がはじまっている。「要するに、私はまだ、死ぬのにも、陶酔を見出せる年齢にある。」「私にとっては、極端まで押しすすめられた完全な感覚は、苦痛の感じでさえ、すでに一つの享楽である。」
 マリアの肉体の疲労はひどくなって、もう外出も不可能になった。「しかし、気の毒なバスチャン・ルパアジュは外出する。彼はここまで運ばれて来て、クッションの上に両足をのばして安楽椅子にかける。私は、その直ぐそばのもう一つの安楽椅子にかける。そうして六時までもそうしている。」マリアは全部白ではあるが、布地とつやの様々の変化を美しくあしらった部屋着を着ている。「バスチャン・ルパアジュの目はそれを見てうれしそうに見張った。――おお、私に描くことができたら! 彼はいう。そうして私も! もうだめ、今年の画は!」
 十月二十日
「天気がすぐれてよいのにかかわらず、バスチャン・ルパアジュは森へ行かないでここへ来る。彼はほとんどもう歩くことができない。彼の弟は彼を両腕の下から支えて、ほとんどかつぐようにしてつれて来る。……この二日間、私の床は客間《サロン》に移された。でも部屋が非常にひろくて、衝立《ついたて》や大椅子やピアノで仕切られてあるから、外からは見えない。私には階段をのぼるのが困難である。」
 マリア・バシュキルツェフの日記はここで終っている。マリアはこの日から十一日後、一八八四年十月三十一日に二十四歳の生涯を終った。バスチャン・ルパアジュはそれから四十日経った十二月十日に死んだ。[#地付き]〔一九三七年七月。一九四六年六月補〕



前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング