は、自分の病気がわるくなるより四年も前に、この「天使のような」ワリツキイ、生きていたら、どんなにか彼女の最後の力となったであろうワリツキイに死なれている。マリアの肺が両方とも腐りはじめていることを知っていたのは、本当はマリア自身だけなのであった。それから、彼女の身のまわりを世話していたロザリイという召使と。ついにマリアが立てなくなるまで、二人のほかには母さえもマリアがそんな重い病にとりつかれていたとは知らなかった。マリアは、絵の仕事がしたい。その為に、病気を知れば母がスケッチのための外出さえやめさせるであろう。すっかり病人扱いにし、涙でぬらし甘やかすだろう。それではマリアとして、どうせ短かい自分の命の価値を、自分が満足するようにつかうことさえできなくなる。それで病をかくした。その上、花のような容貌をしながら二十歳のマリアはすでに結核性の聾《つんぼ》になりはじめていた。その恐ろしい事実を彼女はどれ程の緊張でひとからかくしたろう。いくたびか巴里のあっちこっちの医者へその治療のために通ったかもしれないのである。
「恋人の日記」では、この人生でマリアの最も厭がった拵えもの[#「拵えもの」に傍点]の筋が椿姫まがいに運ばれている。そしてついにマリアは、実は彼女の絵の教師が貰ったサロンの金牌を、彼女へおくられたものとして持って来るモウパッサンの愛の偽りに飾られて死ぬのだが、決して、マリアが自分の最後に面した現実はこんな水っぽい、甘いものではなかった。彼女の傑作「出あい」はサロンで二等になったにもかかわらず、若い娘の作品にしては立派すぎる、非常によい[#「非常によい」に傍点]ことが却ってさまざまな中傷を産んで、当然として周囲からも期待されていた金牌は、第三位の永年サロンに出品している芸術的には下らない画家に与えられたのであった。マリアは、こういう苦痛に顔を向けつつ、しかも勇気を失わずに死ぬ十日前まで、一方では彼女の寿命をちぢめつつ他の一方では刻々とその削られてゆく寿命に意味を与えている絵の仕事をつづけて生涯を終ったのであった。
 私は、ここで要約しながらもほんものの、「マリア・バシュキルツェフの日記」を紹介したいと思う。

 マリア・バシュキルツェフは一八六〇年の秋、南ロシアのポルトヴァで生れた。ロシア風にいえば、彼女はマリア・コンスタンチノヴァ・バシュキルツェヴァと呼ぶのが本当で
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