け、一時間ばかり列に立った。体の大きいソヴェト市民が標準だから窓口が高い。チビは、そこへのび上ってね、後から急《せ》き立てられながら、欲しい劇場の日どりと坐席の列番号をのべたてる。「売れきれです」「それは三階の後から二番目の席しかありません」そんなことでやっと二箇所の切符が買える段になって、窓口の女が云うんだ。「手帳をお出しなさい」自分はわからないのさ、芝居の切符にまさかパンと肉の手帳でもないだろうし。――「どんな手帳です?」「職業組合の手帳ですよ」「私は組合員じゃないんです」「何か手帳はありますか?……でも……」その女は親切なんだ。そう訊いてくれたから、はい、といって出したよ。大日本の外国旅券を!
 ――パスポートを持って歩いてたのか?
 ――ああ。そしたら、その女は笑ったよ、そして「まあいい」って云った。後からこの様子を見下していた大きい労働者風の男が、「そうとも! それだって一種の手帳だ」と云った。笑っちゃった。
 ――切符貰えたか?
 ――貰えたとも! しかも半額で。……そこは職業組合員のためだけの、切符取次所だったのを知らなかったんだ。
 ――パリでも芝居見たか?
 ――見た。
 ――ドイツでは?
 ――見た。
 ――ソヴェトの劇場と比べてどうだね、面白さは。
 ――ドイツの演劇では、機械的な技術がすぐれてるだろうし、演劇の歴史でソヴェト演劇と近い関係があるんだろうが、びっくりさせられるような点がなかったな。実はびっくりしたかったんだが、そういうものには出会わなかった。ラインハルトの近代ロココ趣味や、ピスカートルの上手さあまって反社会主義的効果をもたらしたようなものを見た。
 ――パリのグラン・ギニョールを見たか? 有名じゃないかあれは、ああいうものはソヴェトにあるかい?
 ――無くて仕合わせだ。ひどいので、その点でびっくりした。凄くも、こわくも、綺麗でも、きたなくもない。うんと陳腐な所謂変態心理と性慾を、最も拙劣な筋書きで見せてる。
 ――レヴューは?
 ――ソヴェト式レヴューがあるよ。
 ――オペレットは?
 ――ある。でも、やっぱりソヴェト式だ。
 ――……ついでだから、どうだい一つ見て来た芝居、例えば、モスクワ芸術座なら芸術座、МОСПС《エムオーエスペーエス》それぞれについての印象を話してきかせないか?
 ――素人だからな。……でも、若し興味があ
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