方も或る点非常に機械的になってしまった。
 個人個人の間の恋愛形態が社会にどれだけ連帯責任をもつかということよりはむしろ旧時代の恋愛および結婚生活が絶対のものであるという私有財産制から発生したブルジョア一夫一妻制の宗教的考えを打破するに急であった。
 だけれども現在は建設時代に進んで居るから、恋愛、家庭生活、結婚ということが各個人の社会人としての連帯責任に基礎を置いて居るということがはっきりして居る。
 だから万一一人の共産党青年が片っ端から女を引っかけてゆくとする。それを恋愛は自由であるからとして放任して置くかというと全然反対である。余り非社会的な行為をする場合には共産党青年団の中で、同志的制裁を加えるか、反省を促される。
 女の社会的価値を無視したことをやれば勿論除名もされ得る。けれどもそれだけが第一の問題となって除名されるということはない。
 つまりそういうことをするのがその男の社会連帯責任を無視する一つの実例として見られるのだ。
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 お互の性的関係は先ず第一に衛生問題であって、性的慾望をいろいろ宗教的に決めてしまったり、そこへ妙な道徳観を拵えたりすることはさっぱり捨てている。
 男女が互に好きだということ、それは性慾から発生した感情だという風にはっきり理解して行く。
 だから自分の性慾が自分を刺戟して或る人間に対する興味を感じた場合、その対手の社会人としての価値で引きつけられたかどうかという点は切りはなして考える。
 その点での誤謬を冒すことは非常に減って居り、その点ははっきりして居る。
 フランスでは要するにブルジョア機構内で女が自分の性をどうしたら最も功利的に利用出来るかと考えている。
 だからフランスの女権拡張運動[#「運動」は底本では「  」]というものはどういう状態にあるかということの説明になる。
 けれどもソヴェトでは男も女もそういう意味のブルジョア的性別は、減っている。
 何故かというと、労働において女は男の協力者であり、又家庭生活の中でも第一、小学校から男と女のする仕事が別れるということはない。……学校でくれる弁当を食べると、後の皿を洗ったりいろいろすることは男の子も女の子も混って一緒にする。
 それから部屋の掃除も、畑を耕すことも、植物を採取することも一緒にする。托児所の揺籃から共学でそういう点でも気分が自然違う
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