結びつけた共産主義教育というものをやっている。その中で個性がどうなるかという問題だ。個性の尊重というのは、要するにどういうところに、どんな風に個人の特殊な才能が現れるのかという表現の問題だ。或る一つのことに対する各自独特の表現が個性の表現である。その表現は各人の声の違うように違うはずである。で小学校はどういう教育をしているかというと、主題は一つだ。それはどういうことかというと例えば学年のプランが「春」という題を出す。そうすると、春は大人が都会及農村でどういう働きをするか、大人の働きを子供がどういう風に助けて働くかというテーマを出して、実際問題と結び付けて教えて行く。
教育は労働と結び付いたものだから、労働を主にして生産と人間との関係、自然と人間との関係を明かにしようとするものだから、春という題も、「春は霞がたな引きて」というのでなく、春大人は野に、都会にどう働くか、また子供はそれをどう助けるか問題をそういう視点から見てゆく。例えば春子供達は公園へ鳥の巣をかけにゆく。こういう社会的労作を現すのに或る子供は文章を書く、或る子供は作文が出来ないから絵で画く、また或る子供は雑誌を見たところがそこに出ていた絵が大変面白いと思ったからそれを切抜いて帳面へ貼ってわきへ唱歌を書いてこれを表現するという風にする。だから主題は一つだが、表現方法は非常に子供の性質、有っている表現力というものを尊重して行く。そうしなければならぬということは、経済的にいってそうです。個人が自分の不得手な表現を強いてするということは大変な精力の消耗だから。
ソヴェトが社会主義社会を建設しようとする大目的に向って基本的に決定している指導方向は断然一つだが、その中にある個性の尊重ということは非常に注意してやっている。活かして行かなければならぬ大きな存在というものは常に一つである。それは社会主義をつくるプロレタリアートの大衆的利害だ。その中で個々の性能をどんな方面に社会的に役立たすかという意味における個性尊重、どういう表現を通じて役立てて行くかという点における個性尊重というものは勿論十分各々行われている。アナキスティックな個性尊重というものは金持の坊ちゃんの存在しないと同様にないわけである。
アメリカは誰も知る通り大量生産だ。ソヴェトもそうだ。ところで現にアメリカでは大量生産に慊《あ》きかかっているではないか
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