とを持って居ります。本が面白かった許りではなく、僅かな時の間に、彼程退屈だった雨が急に晴れ上って呉れた事がすっかり私の気分を明るく仕たのでございます。
 澱んで居た雲が徐々に動き始めました。絶壁のように厚い雲の割目から爽やかな水浅黄の空が覗いて、洗われた日光がチラつく金粉を撒き始めます。此の軽い大気! 先生、うんざりする雨の後に、急に甦って輝く森林や湖水、其等の上に躍る日光は、何と云う美くしさでございましょう。水溜を跳び越えながら、一寸頭を擡げて空を仰ぐ若い女の影。馳け廻る犬の愉快な※[#「鼻+臭」、第4水準2−94−73]《スニッフ》。
 陰影が出来、光輝を与えられて漸々立体的になった万物は始めて生きたものらしい活気を盛り始めました。体中の毛穴から、一時に心に迫る新鮮さに浄められたようになって、私はすっかり御機嫌をなおしたのでございます。
 C先生、
 斯うやって物を書いて居る私の窓から瞳を遠く延すと、光る湖面を超えて、対岸の連山と、色絵具で緑に一寸触れたような別荘とが見えます。其等の漠然とした遠景の裡から仄白く光って延びる道路に連れて目を動かすと、村で一番大きな旅舎《ホテル》の伊太利風のパゴラの赤い円屋根と、白い柱列《コーラム》とが瞳に写りますでしょう。レーク・ジョージでは此処一点が、あらゆる華奢と歓楽との焦点になって居るのでございます。
 毎晩九時過ぎると、まだ夜と昼との影を投じ合った鳩羽色の湖面を滑って、或時は有頂天な、或時は優婉な舞踏曲が、漣の畳句《リフレーヌ》を伴れて聞え始めます。すると先刻までは何処に居たのか水音も為せなかった沢山の軽舸《カヌー》が、丁度流れ寄る花弁のように揺れながら、燈影の華やかなパゴラの周囲に漂い始めます。そして、或者は低い口笛に合わせながら、或者は旋律に合わせて巧な櫂を操りながら、時を忘れて、水に浮ぶのでございます。
 C先生、先生は此方《こちら》の人々が愛用するカヌーを御承知でいらっしゃいますでしょう。両端の丸らかに刳上った幅狭の独木舟が、短かい只一本の櫂を運ぶ双手の直線的な運動につれて、スー、スーと湖面を走る様子は真個に素晴らしゅうございます。私は其の軽快な舸と人との姿を如何那に愛しますでしょう。太陽の明るみが何時か消えて、西岸に聳えるプロスペクト山の頂に見馴れた一つ星が青白く輝き出すと、東の山の端はそろそろと卵色に溶け始めます。けれども、支えて放たれない光りを背に据えた一連の山々は、背後の光輝が愈々増すにつれて、刻一刻とその陰影を深めて参ります。そして、宛然《まるで》蹲る大獣のように物凄い黒色が仄明るい空を画ると、漸々その極度の暗黒を破って、生みたての卵黄のように、円らかにも美くしい月が現われるのでございます。真個に、つるりと一嚥にして仕舞い度い程真丸で、つるつると笑みかけた黄金色《きんいろ》のお月様! 黄金色《きんいろ》のお月様!
 此那晩、私共は到底じっと部屋に居る事は出来ません。露の置いた草原を歩み踰えて、古い楊柳の下に繋いだ小舟を解くと、力まかせ水の面を馳け廻ります。子供が大喜びの呼声を上げて野原を馳けるように、我を忘れた嬉しさで櫂を動すのでございます。先生、先生は、月夜に立ちのぼる水の、不思議に蠱惑的な薫りを御存じでございますか、扁平な櫂に当って転げる水玉の、水晶を打つ繊細な妙音を御存じでございますか。――
 けれども、自然は決して単調な議事ではございません。時には息もつまるような大暴風雨で、小さい人間共の魂を、いやと云う程打ちのめす事もあるのでございます。

        (其二)

 C先生。
 東西を連山で囲まれた湖畔は、非常に天候が不定でございます。今のように朗らかに晴れ渡った空も、決して夜の快晴の予言ではございません。山並の彼方から、憤りのようにムラムラと湧いた雲が、性急な馳足で鈍重な湖面を圧包むと、もう私共は真個に暗紅の火花を散らす稲妻を眺めながら、逆落《さかおと》しの大雨を痛い程体中に浴びなければなりません。其の驟雨は、いつも彼方にのっしりと居坐ったプロスペクト山が、霞むような霧に姿を消す事を第一の先駆として居るのでございます。
 此のプロスペクト山は、近傍で一番高い山であるのみならず、五十年程前に、何処かの金持が麓から電車を通して、頂上に壮大な遊楽場を設けたので有名になって居ります。元はきっと、如何那にか熾な場所だったのでございましょう。けれども今はもうすっかり廃跡になって、崩れた舞踏場の傍に、小さい小屋掛けをした老人の山番が、犬を一匹友達にして棲んで居る限りでございます。きっと、金持連の世間から隔った享楽場として、余り大業な騒ぎかたが却って衰退を早めたのでございましょう。今でも腐った軌道や枕木が、灌木や羊歯の茂った阪道に淋しく転って居ります。頂上には、其等
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