のうちに、極自然な人生に対する愛と、よき意味での大望がゆっくり芽生えました。父母の遺伝もあり、自己の傾向もあって、十七歳以後、理想主義的気質が、私の生存の柱となっていました。これを一歩突込んでいえば、異常な惨苦をなめない、健康な生活力に漲った人間が、当然感じる生活愛といえるでしょう。生を愛さずに置けない本能です。然し、実際の生活苦などは知らないのだから、最も自分の想像、期待と調和する理想主義を、知識として呼び出し、自己の情熱の名づけ親とするよりほかありません。感激熱中こそ乏しくはありませんでしたが、当時の生活には著しく、精神的訓練が欠如していました。読書を愛するとか、思索を好むとか、感受性の鋭いとか云うのは皆準備的要件で、重大なのは、どこまでそれ等のおもりに依って自己に沈潜し得るかということです。外界の刺戟によって発動した自己の感激、意望というものを、一先ず、能う限り公正な謙虚な省察の鉄敷《かなしき》の上にのせ、容赦なく批判の力で鍛えて見る。いよいよこれに動きがないというところで、始めて主張するなら、飽くまでも主張するという、真に人をつくる練磨が足りなかったのです、或る「問題」を考えることと、自己を磨くこととを、一様な理知の仕事の裡に混同してしまっていたのです。
 これとても、その時の私は自覚しなかった。真個に一生失ってはならない感激と独りよがりとを、ごたごたにし、人生に対する尊い愛、期待と、空想、我ままを一緒くたに持って、正面から堂々と、人生の或る扉を叩いたのでした。
 顧みて、微笑を禁じ得ません。愛らしき滑稽! 然し、自分の手で開いて見た扉の一重彼方は、私にとって、偉いダンテさえ当惑したような、紛糾の森林でした。
 様々に描き、予想し、もう自己の内部を絶頂まで披瀝して当ったのですから、彼方此方で意外な齟齬に出会っても、自己を回収することすら容易でない。自分で自分の手にあまる廻りからは、どんどん新たな、決して、私の有るべきという範疇では認めていなかった関係的いきさつが不快に、或る時には明かに不正に襲って来る。
 単純であった為、整然としていた自己というものは、極度に分裂してしまいました。分裂した一部分が、それぞれの活力と発言権とをもって対立する。
 この時、私が、実際生活上に起る諸事の軽重を弁え、兎に角自己の立てるべき処を失わずに日々を処理して行く確かさを持ってい
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