、その人も「よっちゃん、よっちゃん」と可愛がるというありさまで、母は母親からは愛されていなかった。従って母に与えられる縁談は、先ほどのいかがわしい取引めいたものか、さもなければ父との縁談のような、一向ぱっとしないものであるか、どちらかであったらしい。
母は役人生活の内情や、実業家と言われる人の家庭生活を――派手に暮した伯父の生活の観察からいろいろ批判していたらしく、結局技術だけで食うには困らずにやってゆけるという程度の父のところへ来ることに決めたらしい様子です。このことは私が十五、六の頃から母が自分でよく話したことでした。
さて中條の家へ来てみたところが、そこには大姑、舅姑、小姑が四人、それにかかり人が二人いるという一家のありさまでした。それらの人々は、式の前にとりかわされる親類書というもので、母にも解っていたそうです。ところが愈々当時小石川原町の家へ来てみると、三つばかりの男の子がいる、誰の子だともわからず、然したしかに家の子供で、それがはしゃい[#「はしゃい」に傍点]で座敷を覗いたりなんかしている。大姑は「俊一、俊一」と呼んで寵愛している様子です。母はその子を見た時、顔から血の色がひくのがわかるような気持がしたそうです。母はとっさにその子は父の隠した子であって、双方の親たちは諒解した上のことで、自分だけにかくされていたことだと思ったそうです。この話は私の心に刻みつけられて、限りない同情を呼び起します。その時代の娘の立場、まして母が自分を愛されていない娘として感じていた気持の深さが、実にむごく反映している一插話です。幸いその子は舅の末弟の息子であり、その妻君が離別された後ひきとられて育てられていたのだということが判明しました。
父は純真な性格の人で、三十歳ではあったがそれ迄道楽もせずにいました。互に諒解が行ったらしいが、明治三十二年の末頃生れて百日目であった私を連れて、北海道の札幌へ赴任する迄の夫婦の生活は、いつもまわりで嵐が吼え猛っているような有様でした。結婚第一日目から父は祖父と客間で食事をし、母は姑その他と茶の間で食事をし、時にはあんまり二人で話が出来ない日が続くので、手紙を書いて紙つぶて[#「つぶて」に傍点]にして話し合ったという思い出話さえ聞いています。
元来母は感情も強く意志も強い、情熱的なタイプの婦人でありました。そのたっぷりした情熱が少女時
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