って私ぐらいの時分は、やっぱり仕事、仕事だったにきまっているくせに――」
 そして、改めて、
「左様なら」
 私はお辞儀の代りにまだそこに腰かけたままでいる父の八分どおり白い髪の毛で縁どられた頭に軽く自分の頬をふれた。父の頭は大きくて、暖かく禿げていて、体温にとけ和らげられたオー・ド・キニーヌの匂いがいつも微かにしているのであった。
 これが最後で、会わない八ヵ月の後、父は不意に、しかも日頃私が一番心配し、また避けたく思っていた事情の下で生涯を終った。母を一昨年失った時にも、私は不自由な生活に置かれていた。しかし、母のときと、今度父に死なれたのとでは、私の心持に大変ちがいがある。そのことは惶しい葬儀の取込みの間にも実にはっきり感じられた。母のとき、私は何よりも父を落胆させまいとして、始終気を張り、心臓に氷嚢を当てながらも喪の礼装を解かずにがんばり通した。当時私の心持を支配する他の理由もあって、私は涙も出ず、折々白いハンカチーフで洟をかむ父の側にひかえていた。
 一月三十日の夜かえって、人出入りのはげしい二階座敷に、父がふだん寝ていると余り違わない様子で黒羽二重の紋服をさかしまにかけられて横わっている顔を眺めた時、やっぱり私には涙が出なかった。けれども、棺をいよいよ閉じるという時、私は自分を制せられなくなって涙で顔じゅうを濡らし激しく慟哭した。可愛い、可愛いお父様。その言葉が思わず途切れ途切れに私の唇からほとばしった。どうも御苦労様でした、そういう感動が私の体じゅうを震わすのであったが、物々しい儀式の空気に制せられてそれは表現されなかった。
 父は建築家としての活動にまめであった。且つ、建築家という一つの専門技術家の立場を、今日の社会の組立ての中で出来るだけ高めて行こうとする努力においてもまめであった。それらのことは父の葬儀の式場で、弔辞としても読み上げられた。併しながら、父が一人の父として、燦きのある暖い水のように豊富自由であり、相手を活かす愛情の能力をもち、而もそういう天賦の能力について殆どまとまった自意識を持たなかった程、天真爛漫であった自然の美しさについて、心から讚歎を禁じることの出来ないのは恐らく我々肉親の子ら、その中でも最も複雑微妙な情愛に結ばれて、謂わば諸共に人生の幾峠かを踰え終せたような娘の一人である私の心持ではないであろうか。ただ可愛がられる娘、父を
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング