手紙を書こうとする時、一層つよく自覚されるのであった。
 いかにも父の亡くなりかたは急であった。父自身死ぬとは思っていなかったろう。一月九日に父は妹娘をつれて箱根の富士屋ホテルにいたのだそうな。そこで血尿の出るのを見つけて、慶応義塾大学病院へ電話をかけ、そのまま東京駅から真直ぐに小旅行の手鞄をもって入院した。父は休養のつもりであった。腎臓に結石のあることを診断した医師達も、そう急変が起りそうな条件は見出していなかった。六十九歳まで生きた父がもう生き続けていられなくなった生命の不調和は、亡くなる日の午後まで元気とユーモアに充ちていた丸々した体内に震撼的に現れたのであった。
 私は一月の半ばごろ面会に来た妹から極く手軽い口調で父が入院したことを知らされた。妹は背後からさす鈍い逆光線の中にコートを着た胸から上を見せて立って、いくらか寒そうな白い顔に持ち前の安らかそうな微笑をたたえながら、わざわざ、
「でもね、決して心配なさらないようにね。お父様御自分だって却ってよかったって云っていらっしゃる位なの。退院したら浜名湖へ行くんだって楽しみにしていらっしゃるわ」
とつけ加えた。三尺ほどの距りをおいて此方側に立ってその話をきいた私は、
「それがいい、それがいい」
と、いつもいろいろと計画してそれを楽しんでいる父の様子を髣髴させつつ賛成した。
「お父様は気が若いからね、入院でもなさらなければ休養なんか出来っこないんだもの。結局よかったわ。くれぐれよろしく、ね。お大事に、って、ね」
 そのときは、もう私の調べがはじまりかけていた。後一ヵ月ほどで終りそうなことがわかった。そのことも父に言伝して、夜電燈が暗くて本の読めない刻限になると、私は様々な考えの間にさしはさんで、さて来年父の七十歳の誕生日にはどんな趣向でよろこばせたものかなどと頻りに考えた。また、もし父が退院する時分私の方でも生活の条件が変ったとしたら、父はさぞ私にも一緒に何処へか行けと、云うことであろう。例によって私は行きたいような心持であり、行きたくない心持でもあるそんなときの親密な父娘問答を想像し、つまりは妹でも一緒について行くことになるのだろう、と、考えは初めに戻って、七十の誕生日には、と私は思を描くのであった。
 父はこの三四年来特に、私と一緒にいられる時は十分思いのこすところないだけ楽しく仲よく過すという心持になってい
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