箱根から慶応病院まで父の体について行った時計も恐らくはそれだったのではないかしら。この胴がクロームという時計については、忘られない話がある。余程古いことになるが或る時、林町へ遊びに行った私に、父がふっと、
「お前、俺の折りたたみナイフを持ってって使っているかい」
と訊ねた。父が初めてイギリスへ行った時買って来たもので、七つ道具が附属した便利な品であった。
「ああ、つかっていてよ」
「――時計も持ってったかい?」
一寸声をおとすようにして、私にだけ聴えるように父はそれを云った。
「時計って――」
我知らず私も声を低め、
「どんな?」
「プラチナの懐中時計が二つとも見えなくなっているから、お前が持って行ったのかと思っていたよ」
「知らないことよ。……本当に見えないの?」
びっくりして私は少し高い声を出した。父には私のびっくりした表情が意外だったらしく、
「お前じゃなかったのか」
と、私の顔を見直した。
「私じゃないわ……いやだわ、お父様ったら! お盗られになったのよ」
「……ふうむ。……お前じゃなかったのか。俺はまた可愛いお前がそんなに貧乏して俺にも云えないでいるのかと思った……あれは、どっちも蓋の裏に字が彫ってあるんでね、そこまでは、どうせ気がつかないだろうと思って実は心配していたよ」
父はいかにも気が楽になったという顔つきで私の手を自分の手の中へとった。そして情をこめてもう片方の手で上からそれをたたくようにした。
「どうもそうわかって見ると俄かに惜しくなって来た。どいつが盗ったのか、怪しからん奴だ」
その二つの時計は父が畳廊下の小物箪笥の引出しに入れておいたのを、いつの間にか誰かに持ち出されてしまっていたのであった。今だに誰の仕業だか分らない。時計は正確ならそれで十分だと云って、父はそれから無事にのこったプラチナの鎖の先にクロームの胴をくっつけて使っていたのであった。
私が林町で父と最後にわかれる一月ばかり前、珍らしく国府津にある小さい家で父と数日暮したことがあった。母が亡くなり、弟夫婦が林町に住むようになった当時、父は自分の居り場所がきまらないような心持であったらしく、私に向かって幾度かお前と国府津で暮そうかと云った。お前の勉強する場所がいるなら拵えてやるよと云ってもくれたが、出入りにそこが不便なばかりでなく、仲よい父娘の一方は妻に先立たれ、一方は良人
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