米沢で生れた。十六の年初めて英語の本というものを手にとったが、絵のところが出て来て始めてそれまで其の本を逆さまにして見ていたことが分った。俺の子供の時分はひどいものだった、そんな話の出たこともあった。大学生時代、うちの経済が苦しくて外套は祖父のお古を着ていたが一冬着ると既にいい加減参っている裾が忽ちボロボロになる。すると、おばあさんがそこだけ切って縫いちぢめて、次の冬また着せる。二年、三年とそれを着て、結婚の話が起るようになって、見合いの写真をとったのが今もあるが、少し色の褪せかけた手札形の中で、角帽をかぶり、若々しい髭をつけた父が顔をこちらに向けて立ち、着ているのは切れるだけ切りちぢめて裾が膝ぐらい迄しかなくなったそのお古外套なのであった。そうと知らずに見ればハイカラだと私たちは大笑いした。
青年時代に日清、日露と二つの戦争を経て、日露戦争前後にはイギリスに数年暮したりした父は、過去六十九年間の日本の経済の発展、変遷と歩調を合わせて、建築家としての経歴を辿って来た。大学を出て役所に入ったのを自分から罷めて、民間の一建築家として活動しはじめた四十歳の父の心持や、その頃の日本の経済的、文化的雰囲気などというものも、私として或るところ迄推察されないこともない。いつの晩だったか、やはり父が安楽椅子に、そして私がその足許にくっついて喋っていたような時、
「だってお父様、日本倶楽部だの何だのでそういう話なんかなさらないの? みんなお歴々なんじゃないの?」
と、訝しく思って訊いたことがあった。その夜の夕刊に出た何か政治的のことであった。
「そりゃそういう人もあるだろうが、俺はきらいだ、面倒くさいよ」
父はこういうたちであった。自身は淡白に、無邪気に建築家という技術を唯一の拠りどころとして生き通した。専門が違い、細かいことは分らないながら、私は世の中での父の仕事というものを幾分観ていたから、父が一箇の建築家から曾禰達蔵博士と共同の建築事務所の経営者としての生活に移って行く意味深い歴史の変化も、恐らくは父の知らなかったに違いない関心で眺めていた。
去年、まだ寒い時分の或る夕方のことであった。林町へ出かけて行って何心なく玄関をあけたら厚い外套を着た父が沓脱石の上に立っていて、家のものがスパッツのボタンをはめてやっているところであった。わきに、もうすっかり身仕度のすんだ一人の青年
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