態が一定して、それが相当の永い期間安定していた時代、その社会のなかでは経験が未来への判断に多くのものを意味した。けれども、私たちが生きているこの現代は、世界じゅうが一つの巨大なうごめきをしていて、硝煙の間で歴史が転換しつつある。経験というものはそういう時代になると、静的に解釈されれば何の力もないことになる。何故なら、去年あることがそうであったという事実は、今年同じあることがそうであるということにはなっていないのだから。去年の経験さえ役に立たないものになって来ているとさえいえる。まして、今日に生きる若い娘にとって、母の若かったとき、お祖母さんの若かったとき、それはかくかくであった、ということが、はたしてどれだけ今日を生き明日へ生きようとする生活の支えとなり得るだろう。
それらが支えとなるだけの力をもっていないということは感じられて、何か自分たちがこれでよいと思えるものを今日のうちから掴んで来たい、それを力に未来の生活への見とおしも立てて計画も立てたい、そう若い女性たちは考えていると思う。
だが、そういう若く愛らしい人生への熱意に対して、女への現実は何を要求しているだろう。若いひとたちは、ある年齢になれば大抵自分で働いて経済上にも自立したい心持をもっている。生活にさし迫っていなくても職業はもちたいと思っている人が大部分であろう。社会の需要もこの頃は女の力を非常に必要としているから、女の働き場所は、ともかく割合にある。だけれども、その働きは、女がより豊富な人間として成長したい心持から求める社会的な勤労の姿では現れず、経済的の点からも自立は不可能なくらいしか報われない。日本では昔からのしきたりがこういうところへ作用していて、若い女は親の娘、良人の妻と考える方便が、近代の経営術のうちに巧にないこまれているから、働く方では一人前、しかし報酬は内職標準という割合がめやすとなっている。働かせはするが、仕事の本流で女は除外されているから、向上の前途も見とおし少い。
それに加えて、今日でもまだ男のひとたちが、相当の生活力をもつ女には男にその二つが是非ほしいように、やっぱり家庭と仕事とがいるのだという自然なねがいを、自然なこととして納得できずにいるというのは女にとって何と困ったことだろう。
男のひとたちは、世帯じみた女を好まない心をもっている。モウパッサンの「女の一生」を女の悲惨として理解する心は持っている。オルゼシュコというポーランドの婦人作家の書いた「寡婦マルタ」をよめば、良人に全生活を庇護されてゆくように、その幸福を飾る花であることを目的としたまとまりないいわゆる淑女の教養きり身につけていない善良で気品ある女が、いったん逆境に陥って燃える母の心から終に馬車のわだちの下で命をおとす悲劇を、自分の妻には絶対にあらせまいとねがうであろう。ちゃんとした職業教育は女にも必要であると思う。
その気持はそれとして偽りのものではないが、しかしながら、今日わが生活の現実として、仕事をもっている妻を想うと、そこに何か家庭らしさに混りものがはさまったように、何か本当の家庭になりきらないものがあるように思う気分が湧くことも、多くの男のひとたちは否定しまい。
友達には仕事のある女のひとがよいけれど、妻には困るという感情はかなりいまだに普遍性をもっている。
たとえどんな仕事にしろ、二十二三歳である社会的な水準まで達することはほとんど不可能であるから、この人生に真摯な心で向っている若い女性たちほど、いわば自分の人生への愛と、異性への愛とに苦しんでいると思う。もしそれが正しい扉にふれてうち開かれれば、その奥には我からおもはゆいばかり咲かんとして期待にみちた花園のあることを知っているのに、仕事もすてたくないという単純な女の希望のために、そんな花園のかくされていることはもとより、ひとなみの程度の女らしささえ欠けているように見られたりすることは、若い女のひとにとって何たるくちおしさだろう。
ものわかりよさの陰翳は、こういう瞬間に女の心にさしこんで来る。私が人生にもとめているのは我ままなのだろうか。そういう謙遜の表現で、忍びこんで来る。人間につまり大切なのは、仕事の上の野心だろうか、つつましい日常の愛だろうか。そのように現実をはなれた観念の上での対比をもとって現れて来る。はたして私にはそれだけの摩擦にたえるだけの、たえてゆくだけの才能があるかしら、そういう否定に立った問いかけもきこえて来る。
これらのさまざまの声々の底には、女というものはしかじか、女の幸福はしかじか、という定型へのものわかりよさ、困難をさけようとするときのおのずからなるものわかりよさが、作用しているのである。
愛すべき若い人生のどの位の部分が、この悲しいものわかりよさをのりこえて自身の成長の歴史
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