への感情である。ものわかりよさは、高い人間の明知とはちがった性質のものである。一方に深い質問を抱いてそれを追究して新しい何かの価値を人生にもたらして来るような、そういう建設の意力を、ものわかりよさはもっていない。ものわかりよさは、いつでも現在その人の生活する世間で通用している型どおりのものの上手なとりあわせを心得ているということである。善悪の判断のあり来りの型だの、表通りはそうでも、裏の小路はこうついていて、そこの歩きかたはこうこうという要領や、人間はあまりの真実はかえって嫌う臆病さをもっていること、嘘も方便ということ、労少くして功多きを賢しとするしきたり、それらをみんなわきまえていて、下品に流れず、さりとて実際からそれず、生活の棹をさしてゆく術を、ものわかりのよさ、というのである。
 女であれば、世間並に娘時代の修業をつんだら、親の社会的な位置にもふさわしい結婚をおとなしくうけいれて、良人をよく満足させる努力の余力でいくらかは自分も楽しませ、良人の立身出世をよろこび、身分相当の家庭生活をやってゆく、そういうものがものわかりのいい女性であるとされている。良人のある程度までの浮気も、家庭生活が守られてゆけば、とものわかりよく、この程度のことは今の世の中では常識だからと地位から来るあれこれの利得に潔癖すぎもしない。そういうのも、やはりものわかりのわるい女には入らないのである。
 若い女性の成長にとっては、ものわかりよさが遙に複雑な陰翳をなげると思う。それこそは青春のかえがたい贈物である知識欲や成長への欲望、よりよい生活へ憧れるみずみずしい心の動きは、現実にぶつかって、一つ一つその強さを試みられているわけだが、その現実は、青春の思いや人間の成長をねがう善意に対して、何と荒っぽい容赦ない体当りをしばしばくらわせることだろう。
 もし私たちの悲しみや苦しみ、悲劇が人間としての悪意からだけ生じるものならば、古今の傑れた文学が何かの意味での人間悲劇を扱っている根拠が失れるであろう。悲劇というものに人の魂をうつ美があり得ないであろう。人間の最も純真な善意、まじりけのない善良な希望、そのものが現実の歴史の波濤の間でそれなりに表現されず、ましてや成就されないことがどっさりある。善意は現代社会の矛盾のうちでいつも冒険におかれているのである。
 経験が多くのものをいう時代もあった。社会の状
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