のだろう、というところにある。
例えば、或る中年を越した左翼的生活経験をもつ一人の男が、過去の家庭生活を更えて、妻子と離れ仕事に於ても共通点のある若い女と同棲生活に入ろうと欲する。その欲望は、男にのこされている生涯がそう永いものではないという見透しや、男一生の思い出にという熱情の爆発やによって甚しく強烈であり、過去の全生活に対して今や負担と退嬰的な要素しか見出せない状態に陥ったとする。人生の或る深刻な危機、モメントとして、それだけのことは諒解されるとして、そのひとが、その主観に立って、進歩的世界観に立脚する新たな恋愛論として、移行論或は清算論めいたものを主張することは、はたして当を得ているであろうか。健康な、十分の社会性をもった発展的恋愛論を求めるならば、そういう困難な現実の個々の場合をも包含しつつ、そのような事情を惹き起すにいたった過去の恋愛、結婚生活の性質の究明、将来に於てその悲しむべき紛糾が減らされるための社会的見とおしが与えられなければなるまいと思う。日本のような特徴的な結婚、家庭生活が行われているところでは、このことは特別に考慮されなければならない点である。封建的な恋愛、結婚、家庭生活の重みに反撥することから、進歩的見解をもつ若い人々が我知らず機械的唯物論に陥ったり、アナーキスティックな放縦へ墜落したりすることの多い現代の分解的・醗酵的雰囲気の中では、このことは特に大切であると思われる。
或る婦人雑誌が、恋愛についての座談会をもち、林芙美子氏、深尾須磨子氏その他が話した。その記事を偶然読んだ。お定[#「定」に傍点]の話が出ている。林芙美子氏は「私はお定のようになりたくてねえ」と云い「みんな体裁をかまっているから駄目なんですよ」と云っている。深尾氏はお定が変態的であると評されている点が決して変態的でないと主張しておられるのであるが、私が膝を叩いて感じいったことは、私はお定のようになりたくってねえと云わしめた言葉の根底には、世間の大部分の男は「お定の対手になって見たかったと云っていますね」という条件に対する反応の意識が伏在しているのであった。どんなに面白く、思い切って恋愛論をするかというようなことが、せち辛い世の中では、身すぎ、世すぎをもふくめて男のひとに対する女それぞれの一種の嬌態、ジャーナリズムへの秋波としてさえ役立てられているのである。
これらの二
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング