がその時どんなに淋しそうに見えたろう。
考えて見れば、自分と同じ病の人の歌の気持は、私共に想像出来ないほど他の人の心を打ったに違いない。その様子が、どうしても追う事の出来ない様に私の目先にチラツいた。
そして、私は、涙をためながらあの人にたよりを書いたのであった。
奇麗な白い紙に、細い平仮名ばかりのやさしい「ふみ」であった。
何としても、あの人の病を私が明かに知って居る様な事を云えなかったので只心に浮ぶままを書きつらねて行った。小さい私の部屋の隅から隅までより倍もながかった。
じいっと、柱にもたれて、次第次第に黒ずんで来る森を見て居ると、その中の文句がきれぎれに思い出される。
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いつもいつもゆうぐれにさえなりますれば、私の心に夕ばえのくもの様にさまざまないろとすがたのおもい出がわきますなかの一つが、とうとうこうやってふでをとらせたのでございます。
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思いがけないあの長い長い私の手紙をうけとって、彼の人はどんなに妙に思った事だろう。
私は、床の上に起きあがって封書を持ったまましばらくは私からと云う事をうたがって、やがて私の癖の多いのたくった様な字を見きわめてから一方のはじをきるに違いない。
何事でも用心深くやって行くあの人の気だてが出て来るのであろう。
あの時、この後も御たよりをさしあげるのを御許し下さいと云いながら何となしせわしさにとりまぎれて一度もあげなかったけれどもどうだろう。
私の筆不性から、又あの人の気まぐれだろうと思われてしまう事は辛い事である。
彼の人が斯う云う病気になった時は、私が丁度遺伝と云う事に何となし心を引かれて居た時だったので非常に悲痛な適例を見せられた気がした。
今更恐ろしさに身震をせずには居られなかった。
自分の慰安を得るために、未来はてしなく産れ出づべき子孫の者共の辛痛を思わずに無責任に家庭を作ると云う事が明かな罪悪である事を思わされる。
人間は病苦と淋しさに堪え得る強い心がないのであろうか。
それ等の涙の種を忘れ得る専心の仕事を得られないものであろうか。
斯う思うにつけ、知人の一人でまだ若い人が自分の病苦を未知な子孫に与えるのに忍びないと云って、孤独の一生を送る決心をして居るのを尊まずには居られない。
真に幸福な事には私の体には何の濁った血液も流れ入って居らず健な心臓と頭を持って生活して行けるので私の周囲に起って来るそう云うみじめな事柄を見ききすると実にたまらない様になって来る。
「幽霊」のオスワルド・アルヴィングが受けたと同じ深さの苦悩が彼の人の胸の中にも横わって居るのである。只その苦悩が外に現れたのと、劇しい争を眼に見えぬ心の中でして居るのとの違いがあるばかりである。
或る種の病の様にその生命が危険になった時には既に意識を失って居ると云うのなら幾分苦痛をのがれる事も出来様けれど、最後の一息を吐く瞬間まで明かにすぎる頭のままでなやまなければならない気持を私は心から同情するのである。
私はその人達の親をせめるのである。
親がその子と云う血肉の分れたものを此上なく愛すると云うのなら、何故、楽しかるべき世の幾段かの階をふませた後に生を奪うみじめさを思わないのであろう。何故始めから、今日こぼすいとおしみの涙をこぼして、静かに安らかな未来の国の子供となし得なかったのであろうぞ。
私は、親となった人達の無責任さを、その罪の浄むべくもあらず深いのを力の有らん限りせめたいのである。子孫を産み養い育てる事は人としての義務ではあるとして、箇々の人にとってはそれが必しもその人に対しての最も適切な義務ではない事があるのを思わねばならないではなかろうか。
私は重くなった様な頭をあげてほの暖い夕闇のあたりをながめた。
底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1915(大正4)年9月8日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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