人類中の、少数の人々にとってはいかなる地上的幸福も悲惨も終局、内奥の人格に些の汚点をつけるにも足りないと云う特殊な場合はあります、非常に偉大な人格は、全く独立した人格で、何処にあっても、圏境を超えてそれが素で働いて行くと云うことなのです。
 然し、我々は、ざらに、それ程宏大な力強い人格を期待することは出来ません。
 境遇の善悪、幸不幸などと云うことは、それによって人格が何等かの影響を与えられるからこそ問題となり得るのです。要点を云えば、境遇と云うのも、単に具体的現象の種々な相自身を指すのではなく――親が無い、極度に孤独だと云うその事実を云うのではなく――その事実に籠っている心理的な暗示の要素を指す事になります。
 それ故、若し我々が真個に人間を愛し、女生と云う相互の密接な関係を愛するならば、人とし、女性とし、生くべき心を無にするあらゆる境遇は、改善して行かなければならないのではありますまいか。
 その婦人のような場合も、若し、現代の社会に何か違った組織の一つが加えられているならば、もっと異った結果になりはしなかったろうかと思われます。
 たとい若し、彼女の最初の婚約が全然絶望的なものと成った当時、既に、自力によって一定の収入を得る総ての女性間に、経済的相互扶助機関が確立しているとしたら、どうなったでしょう。
 収入の幾割かを皆が積立てて、その適当な運用、利殖によって、組合員の老後や病時の安定が保障され得るとしたら、恐く彼女はあれ程生存の不安に追立てられは仕なかったでしょう。
 従って、第一回の恐ろしい失敗は或る程度まで未然に防がれた可能があり、同時に幾年かのより長い経験で裁縫なら裁縫の技術が練磨されたと共に今回のような不幸に遭遇しても、全く、人間としての希望の上に立って、根底ある生活を持続し得る信念を与えられたのです。
 勿論、右のような経済的制度、基礎的団結のみが箇人の価値を、急激にあげようとは思いません。
 然し、例えば彼女のように、或る程度の人格的覚醒と同時に、伝習的虚弱さを具有する今日の多数の女性の為には、少くとも、生活の根本動機を自己の心意に置き得る丈の役には立つと思います。
 良心の疚《やま》しさを、種々な自他の慣習的弁護で云い繕いながら、粗野な言葉を許されれば、幾十人の女がしたように、糧食と交換に「女性」を提供する、「気」にならずにはすむ訳です。
 口実を許す「実際的必要」がなくなれば、口実によって人格を無視する訳には行かなくなります。既に、左様な組織が存在すると仮定すれば、目下種々な事情から生活方針の選択に迷っている者は少くとも最後の判断は自分の心によってなされるのだと云う責任感も与えられ、当然、考察の深化と視野の拡大は予期されます。又、これから人生の始ろうとする者は、先ず人として立とうとし、前時代の女性には一種の宿命的威嚇であった「身の振りかた」と云う概念に制せられないでもすむことになるではありますまいか。
 現今、学識の深い女性は多くあり、特殊の技能を持った婦人は非常に増加しています。その中の或る者は、明に独立的人格者として、生涯を自己の意志で支配して、或は、するべき必要を感じているのです。然し、平時の生活はどうでもなりはしても、不時の災害の種々な場合を予想してそれを断行し得ない者が幾人あるか分りません。
 自分が一旦宣言して、境遇から、或る人間の裡から去ったのに、どうして又病気になったからと云って、おめおめ尾を振って行かれましょう、この心持は、感情として、非常な力を持っています。
 何も、総ての女性が経済上独力で生活すべき、と云う為にこの事が心に必要を感じさせたのではありません。或る事――或る生活が、或る時代の多数の人間をより正しく――輝しく意義あるように生かせるとしたら、それを完うするために、相互の深い理解と愛から生じた方法、組織が親切に、賢く案出されるべきだと思ったのです。
 この考えは、未だ考えとしても発育未完なものです。まして、容易に実行され得ることではありません。
 けれども、私共に、只注入された知識としてのみ、よりあるべき内容の人生の可能を知っていればよいのでしょうか。
 土台をかためる、一つの小石も運ばないでかまわないのでしょうか。
 私共は、真個によりよい事実の上に生きることを熱望致します。[#地付き]〔一九二一年八月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「女性同盟」新婦人協会
   1921(大正10)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング