ある。野上彌生子さんその他何人かの友達も、やはり文学を中心としてその歴史をさかのぼり、今日まで流れすすんで来たりした過程にめぐりあった友達である。
ロシヤ語の専門であった湯浅芳子さんとは何年も一緒に暮し、外国旅行もし、丁度私の生涯の一つの転換時代であったから、互の感情生活も極めて複雑であった。友だちとのいきさつでも、つきつめたところは全人格のぶつけ合いである点、時にはなかなか激烈な人間交渉を生じる。精いっぱい、自分が人間としての全力をひきしぼらなければならないような場合が、千変万化の形であらわれて、友情にも、クリシスがある。
社会的な動的な性質がその友情のなかに多くこもっていればいるほど、歴史の波や個人の事情が二重に映り作用して、誠実な人の心と心との間では、夫婦の間におこるとはおのずから異りながら、おのずから同じところもある発展の道ゆきがあるのではないだろうか。
窪川稲子さん、壺井栄さんなどとの互の心持の関係は、友情もひととおりのものでなく、そういうところまで行っているのだと思う。そして、めいめいの良人に対する友情も、謂わば互の心にある妻としての情愛を互に理解した上でのようなところがあって、友達としての良人たちに対する直接の友情にもう一つ女としての微妙なニュアンスを加えているところも面白い。みんな文学の仕事をしていて、それぞれがそれぞれにちがう作風をもっていて、そこまで成長して来た生活の出発は、故郷がちがう以上まるで互に異っている。その三人が、東京が首府だから自然そこに落ちあったというばかりではない歴史の動きにめぐり合いの機会を与えられたということも、女同士の友情、また婦人作者たちの間にある友情として、やはり新しい性質を含んでいるのだと思われる。
女同士の友情なんてあてにならず、あるかないかも分らないものとされたのは、女が自分の生活の主人でなくて、受け身におこる様々の悲喜を全く自分一個の幸不幸の範囲でだけ感じていた時代のことではないだろうか。女の友情も、今では現実の社会感情としての本質のなかに男が友を得るのと同じ、己を知ってくれる者を知るという要素が多くなって来ていると思う。女の友情の地盤もそれを思えば随分ひろげられもし強くもされて来ているのだ。
考えてみると、私は本当にいい友達を持っていて、それはありがたいことだと思う。男の友達でも、幾人か親身のつき合
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