った。それから小声で、
「うるさいなあ。……唄ぐらい何うたったかて、ええやないの」
 だるまや百貨店の寄宿舎は、店主の津田の家に粗末な建てましをした三部屋が寄宿舎としてつかわれていた。五十人ばかりの女店員が寝起きする部屋の一方の窓は、津田の書斎のガラス窓に向っている。だるまやは、儲けるばかりが眼目ではない。皆が一つ家族の心持[#「一つ家族の心持」に傍点]で、娘と親の心持で、苦しさも喜びもともにわけ、働くことを学び、社会に奉仕させていただく[#「社会に奉仕させていただく」に傍点]のが眼目であるというので、津田と細君の幾子が寄宿舎も自宅にくっつけてやっているのであった。
 うち[#「うち」に傍点]におれば母の手伝いをしない娘や息子はないのだから、嫁入り前の家庭的なしつけのため[#「しつけのため」に傍点]と云って寄宿舎にいる若い女店員たちは朝は交代に炊事をさせられた。男の小さい店員たちは外まわりの掃除をすることになっている。
 毎晩十時すぎ、くたくたになって皆が帰ってくると、起るとから寝るまで白いエプロン姿の幾子が上り口に娘たちを出迎え、
「大きに御苦労さま」
と挨拶し、
「さあさあ、お湯《ぶー》がええ加減ですよ」
と云った。飯たきの中婆さんがやとってあるのに、夜のフロの番は必ず幾子がした。くたびれて帰った娘たちを慰めてやるのは母親の心づくしだ、と云うのだ。けれども女店員たちは一人としてそれをよろこぶものはなかった。
 一番に津田が入り、次には年が小さくても男の店員たちが入る。それから女店員が時には幾子と一緒に順ぐりで入る。そんな風にして入る風呂がすめば十二時になるのはあたりまえであった。しかも湯の水が減ってしまっていても、ぬるくて心持がわるくても裸で「奥さん、ちょっとたいて下さい」と、声をかける勇気のある娘たちはなかった。我慢してしまう。呑気《のんき》そうだが鋭い気性のまきが、いつか、フロを出るなり大きなくしゃみをして、
「うまく考えたもんじゃ! 一年につもったらだい分石炭がちがうわ」
と云ったのは本当だった。皆そう思っているのであった。
 今日のような半休でも寄宿舎の女店員たちは通勤とちがって存分に手足をのばしてふざけることも出来なかった。外出は二人以上組でないといけない。半休ごとに出かけると幾子が、さっきの唄のくちで、何かと当てつけた。
「東京には花嫁学校と云うのが出来たそうですが、皆さんは結構じゃわ。こうしていて商売の道は覚えてゆくし、社交はお手のものじゃし、――当県ではだるまやの寄宿舎にいた娘はんじゃったら理想的な花嫁さまじゃと云わせんならんわ。――ねえ」
 幾子はもと、どこかの村で裁縫の代用教員をしていたことがあるという話であった。
 寄宿舎の室の内では、襦袢の襟をかけかえている者、声を忍ばせて笑いながら、腕相撲をとっている組。そのわきで、とよ子とサワが、
「あんたおいきよ」
「いやア」
「何故?」
「――知らん!」
 さっきから押し問答をしていた。
「ね、こんど私がきっとゆくから、おがむ、かりて来て」
 サワが渋々たって襟もとを直しはじめた。
 だるまやの寄宿舎では、女店員たちの室へ新聞さえ置かせなかった。
「ここにおいてあるから、いつでも読んで下さい」
 新聞はキチンと重ねて、幾子の座っている茶の間、女店員たちの室とは狭い廊下一つ隔てた茶の間の茶箪笥の横においてあった。畳に手をついて物を云ってまで、借りにゆくのが面倒なので、つい女店員たちは何日も何日も新聞さえ忘れて働きに追われ暮すことになるのであった。
 とよ子は、九條武子の石版ずりの色紙を懸けた板壁にもたれ、けったるい膨《ふく》ら脛《はぎ》をゲンコでストストたたいた。
「あの――ちょっと」
と云っているサワのよそゆきの声が聞える。



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
※執筆は1933(昭和8)年
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年4月22日作成
2003年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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